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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(48)

「天智紀」(36)


鎌足と鏡王女(16):悲劇の王女(1)


 天智から鎌足に下げ渡された鏡王女のその後について新庄さんが語っていることは大変興味深くはあるが、その裏付けがない。私がいま手元に持っていていつでも使える史料は『日本書紀』・『続日本紀』・『万葉集』・『風土記』・『藤氏家伝』だけだが、それらには全く出てこないことだらけなのだ。論証らしきことすら出来ないので、取り上げるのはよそうかと思った。しかし、問題提起という意味で、問題点だけでも書き留めておこうと思う。

 新庄さんは「鏡王女と藤原鎌足」を次のように書き始めている。

 今回、鏡王女のことを今までの説とは違う視点から書いて見たいと思うようになったのは、以前から家にあった『大和古寺巡礼』という小型の本を読み出したのが初めでした。

 その中の興福寺の所で、初めて聞く話に釘付けになったのです。若い頃から憧れにも似た思いで描いていた才色兼備の女性「額田」「鏡」の二王女。その一人の鏡王女が鎌足の妻となっていたこと、初耳でした。

 しかもその上、今、大和法隆寺の本尊とされているあの有名な仏像、釈迦三尊を持仏として京都山科の私宅へ持ち込んでいたということ、これは真に驚きでした。しかもそれは再三に渡り鎌足に懇願の末に彼女は持仏にしたということ。普通の家には入り切れぬ様な不似合いな仏像を何故、懇願してまで供養したいと願ったのでしょうか。

 あの仏像の前に額づく彼女の姿を想う時、しかも懇願してまでもということは、これは皆人のいう大和の女性ではないと直感したのです。それはかつて筑紫の宮廷において天皇に仕えていた高貴な女性であった、ということを動かし難いものと確信したことです。

 鏡王女は京都山科(やましな 「山階」とも表記される。)にある鎌足の別邸に居住していたことや、そこで釈迦三尊を持仏として供養していたという伝承は興福寺のホームページにも書かれている。また、図書館で見つけた『興福寺のすべて』(小学館)・金子啓明著『興福寺の仏たち』で、興福寺の由来についての記述を調べてみたが、大同小異で、興福寺が公開している見解を踏襲しているだけだった。それらの中から、一番詳しい『興福寺の仏たち』の記述を引用しよう。

 興福寺の起こりは、藤原鎌足が開いた山階寺にある。鎌足は大化改新のとき、中大兄皇子(のちの天智天皇)を助け、蘇我入鹿打倒に活躍した有名な人物であるが、その決起が成功することを祈って、皇極天皇4年(645)に釈迦三尊像と四天王をつくる願いを立てたという。

 その後、天智天皇8年(669)になって、妻の鏡女王の勧めもあり、山階(現在の京都市山科)に寺を建て、これらの像を祀った。これが山階寺である。その場所は長らくわからなかったが、最近の研究によると、JR山科駅の西南あたりと推定されている。

 山階の地は、当時天智天皇が都を置いた大津とも山をひとつ隔てただけで近く、のちには天智天皇もこの地域に葬られている。

 天智の死後、壬申の乱を経て都が飛鳥地方にもどると、山階寺は同地の厩坂(うまやさか)に移されたという。その場所は現在の久米寺(橿原市久米)のあたりとする案が有力であるが、はっきりとはわからない。

 和銅3年(710)、都が平城京に遷(うつ)されると、飛鳥地域にあった寺々が、あいついで新京に移転する。厩坂寺も平城京の外京(げきょう)に遷って、新たに興福寺となった。

 興福寺は先のような前史にちなんで、山階寺、厩坂寺の別名をもつことになる。

 新庄さんの記述と大きく異なっている点がある。上の説明では、釈迦三尊像は、鎌足が蘇我蝦夷・入鹿を謀殺の成功を祈って、発願したものとしている。ここでは「発願」したとあるが「造立」したと明記されていない。興福寺のHPでは「鎌足が蘇我氏打倒に際して発願し、その後に造立した」と説明している。もちろん、このような記録は『日本書紀』にも『藤氏家伝』にもない。皇極天皇4年(645)とか天智天皇8年(669)とか、釈迦三尊造立の発願と山科寺への安置の年がもっともらしく付けられているが、それぞれ蘇我親子謀殺の年と鎌足死去の年が付されたのすぎない。

 一方、新庄さんはその釈迦三尊像は法隆寺の本尊となっているものだったとしている。文脈から察すると、この説の出所は『大和古寺巡礼』ということになる。この本の著者が何を典拠にこの説を唱えているのか知る必要がある。新庄さんが文末にまとめている参考文献には次のように詳しく紹介されていた。

『大和古寺巡礼』現代教養文庫390 青山茂他著 社会思想社 昭和37年


 ここから、書かずもがなの苦労話をちょっとだけ。
 いつも利用している図書館のHPで検索してみたが、この本はなかった。困った。社会思想社は2002年に倒産している。当然現代教養文庫は絶版だ。新刊本を扱う書店では手に入らない。仕方がないので神田の古書店街に行った。私の探し方が下手なせいか、現代教養文庫には一冊もお目にかからなかった。帰ってきて、ふと思いついてネット検索をしてみた。何冊か出回っていた。「ふるほん文蔵」という書店さんに注文して手に入れました。

 苦労して手に入れたが、新庄さんが書かれたような「山科寺の釈迦三尊像=法隆寺の釈迦三尊像」説はどこにもなかった。しかし、流布されている説とは異なる点が一つあった。


 寺伝によれば、藤原鎌足は蘇我氏誅滅後、釈迦三尊などを造立して四天王寺に安置するつもりであったが、果たさぬうちに病死した。

 ここでは鎌足の釈迦三尊像は造られなかったことのなっている。新庄さんの「山科寺の釈迦三尊像=法隆寺の釈迦三尊像」説には確かな典拠はないようだが、ここから出てきた推測のようだ。しかし、鎌足が釈迦三尊像を造っていなかったとすれば、新庄説にも一理はある。(以下、「釈迦三尊像」は法隆寺の釈迦三尊像を指す。)

 釈迦三尊像が九州王朝の宝物であったことを古田さんが緻密に論証している。

「法隆寺の中の九州王朝」 を参照してください。)

 しかしそれがどういう経緯で法隆寺に持ち込まれたのかは不明である。新庄さんの文章の続きを読んでみよう。

 この仏像(釈迦三尊像)の光背銘文の金石文は古田武彦氏の証明された如く、法輿元と九州年号に始まって記されたもので、その中央におわす仏は多利思北弧の像といわれています。九州宮廷にとっては最も大切な仏像の一つであったことは間違いのないことでありましょう。多分それは宮廷にあった持仏ではなかったか。

 それが白村江敗戦後、怒涛のような混乱の嵐の中でその経緯は不明ながら、数限りもなく王朝の宝物が関西大和へと運ばれて来たことは間違いなく、これは華麗なる文明の、田舎への総疎開にも似たものではなかったかと想像するのです。

(中略)

 私は思い出したのです、京都妙心寺の梵鐘のことを。これは九州観世音寺のものと一対であったものでその片方であること、大八車で売りに来たのを寺が買ったということ、いかに九州の宝物が分散したかということを知る確かな一例です。

 興福寺は藤原氏の建てた氏寺であることを思うとき、鏡王女も藤原氏も九州宮廷とは深い関係にあったことを知るものです。

 「妙心寺の鐘」について補足しよう。(古田さんの講演録「法隆寺と九州王朝」から)

 妙心寺の鐘は『ここに古代王朝ありき』で古田さんが初めて取り上げた。その鐘には「糟屋評で造られた」と書かれている。糟屋評は博多の東にあった「評」である。このことから古田さんは
「この鐘は糟屋から天皇家に献上され、その天皇家から何時代かに妙心寺へと奉納されたのだろう。」
と、推測した。しかしこの推測が気になって、古田さんは妙心寺の鐘をもう一度くわしく見ようと、紹介状を持って妙心寺を訪ねた。帰りに住職と次のような会話をしている。

「あの鐘は何時天皇家から奉納されたのでしょう。」
「ああ、あれは買うたんじゃ。」
「えっ」
「大八車に乗せて、寺の門の前に引いてきたのを呼び止めて買うたんだ。買うた住職の名前も分っとる。買うた金も分っとる。安いもんじゃ。」

 この顛末を古田さんは次のように述懐されている。

 私は唖然としました。愕然としました。しかしこれは内部では何の隠れもないことだったんです。私はその時、物事は、知識は、足で確かめ確かめしなくてはいけない。類推でこうであろうと、自分の知ったかぶりの知識を基にして行動してはいけないと、本当に思い知らされました。

 下に記すように近畿王朝が九州王朝の宝物を組織的に買収(強奪?)した証拠(後述)がある。しかしまた、白村江の戦い敗戦直後には、混乱にまぎれて一般人の略奪もかなりあったことだろう。妙心寺の鐘はそのようなものの一つと思われる。

 『「倭の五王」とはだれか:真説編(3)』 でも取り上げたことあるが、正倉院文書の 「築後国正税帳」には大和王朝が筑後国からたくさんの宝物や職人を献上させた記録が残っている。それは他の国からの奉納品とは著しく異なる。

 銅釜工、轆轤工3人、鷹養人30人
 鷹狩り用の15匹
 白玉110個、紺玉71個、縹玉933個、緑玉72個、赤勾玉7個、丸玉4個、竹玉2個、勾縹玉1個。

 鷹狩りは天子の遊びだし、玉類は当時天子しか所有できない品々であった。このようなところにも九州王朝の存在したことが、はからずも表明されている。
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