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鎌足と鏡王女(15):x皇子とは誰か(8)

 やっと終点にたどりついたようだ。最後に、直接志貴皇子に関わる事柄ではないが、「高圓離宮」のことを検討しておく。新庄さんが取り上げていた最後の5首である。

興に依りて各々高圓の離宮處(とつみやどころ)を思いて作る歌五首

高圓の野の上の宮は荒れにけり立たしし君の御代遠そけば(4506)
〈右の一首は、右中辨大伴宿禰家持のなり〉

高圓の尾の上の宮は荒れぬとも立たしし君の御名忘れめや(4507)
〈右の一首は、治部少輔大原今城真人のなり

高圓の野べはふ葛の末ついに千代に忘れむわが大君かも(4508)
〈右の一首は、主人中臣清麿朝臣のなり〉

はふ葛の絶えず偲はむ大君の見(め)しし野邊 には標(しめ)結ふべしも(4509) 〈右の一首は、右中辨大伴宿禰家持のなり〉

大君の繼ぎて見(め)すらし高圓の野邊見るごとに哭(ね)のみし泣かゆ(4510) 〈右の一首は、大蔵大輔甘南備伊香真人のなり〉


この5首についての新庄さんのコメントは次のようだった。

「朝廷の官人達はこの高円山へ集い天皇への哀惜と共に瓦解する国家への限りない惜別の涙を捧げたのでありましょう。その時の歌五首を掲げます。これは『万葉集』最後を飾り、締め括ったものでもありました。」

 ここでも新庄さんは思い込みは大きくずれていると思う。『万葉集』の編纂を主導したのは大伴家持と言われている。家持と同時代の歌の題詞はその通りに受け取ってよいのではないか。この5首は題詞の通り、酒宴の席で瓦解してしまった九州王朝のことが話題となり、「興に依りて各々高圓の離宮處を思いて」詠んだ歌だ。『万葉集』巻20末尾の目録は次の通りである。

二年春正月三日、王臣等の、詔旨に應(こた)へて各〻心緒(おもひ)を陳(の)ぶる歌二首

六日、内庭に仮(かり)に樹木を植ゑ林帷(かきしろ)と作(な)して肆賽きこしめす歌一首

二月、式部大輔中臣清麿朝臣の宅に宴する歌十首

興に依りて各〻高圓(たかまと)の離宮處(とつみやどころ)を思ひて作る歌五首

山齋(しま)を屬目(み)て作る歌三首

二月十日、内相の宅に渤海大使小野田守朝臣等に餞(うまのほなむけ)する宴(うたげ)の歌一首

七月五日、治部少輔大原今城眞人の宅に、因幡守大伴宿禰家持に餞する宴の歌一首

三年春正月一日、因幡國の廳にして、饗(あへ)を國郡の司等に賜ふ宴の歌一首


 「三年」とは天平宝字三年(759年)のことである。『万葉集』は759年で終わったことになる。くだんの5首は758年の2月(10日以前)の宴での作歌である。

 高圓離宮は聖武天皇が晩年に好んで利用した離宮であり、聖武を偲んで詠われた歌だというのが定説のようだが、歌の内容から言ってもこの説はおかしい。聖武が退位したのは749年で756年に亡くなっている。この宴はその2年後のことである。「高圓の野の上の宮は荒れ」たとか、「君の御代」は遠いとか、ちょっと大げさすぎないか。私には九州王朝を偲んだ歌だと思える。ただし、「君の御代」の「君」は志貴皇子ではないだろう。あくまでも九州王朝最後の天子を指している

 またこの離宮は施基皇子の別荘だとする説もある。この説はますますおかしい。だいたい皇子の別荘を離宮と名呼ばないだろう。離宮とはあくまでも天皇の「とつみや」であろう。

 また、施基皇子が亡くなったのは716年、50年ほどの前のこと。唯一生き残った天智の皇子というせいもあったか、生前はたいした活躍はしていない。この頃ではほとんど忘れられていたのではないか。息子(白壁王)が天皇(光仁)なった時に、天皇号を追尊されて再び人々の話題に上ったのは770年、この宴の12年後のことのことである。家持たちが歌に示されたような深い思いを込めて施基皇子を偲ぶ必然性はない。もし施基皇子の別荘が高円山にあったとすると、「高圓の野の上の宮は荒れ」たという詩句はしっくりするが、一介の皇子に対して「君の御代」という詩句はますます宙にういてしまう。

 歌の作者に目を移してみよう。その4人の作者の出自はともに九州王朝ゆかりの王族または貴族と思われる。

大伴家持
 大伴家持の父親は大伴旅人。旅人が九州王朝の貴族であったことはすでに論じた。 (「『万葉集』巻3 328番歌」)

大原今城真人
 『続日本紀』では「大原真人今城」と表記されている。519番の題詞に「大伴女郎歌一首〈今城王の母そ、今城王、後に大原真人の氏を賜ふ〉とある。大和王朝成立の頃、王が掃いて捨てるほどいる。「…王」(特に「無位…王」)は大方九州王朝時代の諸国王と考えられる。ちなみに「真人」は九州王朝では最上位の階位名であった。

中臣清麿朝臣
 頭注には中臣朝臣意美麿(『続日本紀』では「意美麻呂」と表記)の子とある。この宴の主人である。後に大中臣朝臣の姓を授かる。最後は右大臣にまで出世している。大和王朝成立の頃の「中臣」氏は九州王朝ゆかりの貴族と見てよいだろう。

甘南備伊香真人
 『続日本紀』での初出は「無位伊香王」である。後に甘南備真人の姓を授かる。

 九州王朝滅亡から半世紀ほど経っている。王族や貴族たちはこの頃よく酒宴を開いていたようだ。九州王朝ゆかりのもの同士での酒宴では、周囲を憚りながらも、九州王朝が話題にのぼったであろうことは想像に難くない。九州王朝の離宮が歌の題材にされたこの酒宴のことが天皇(孝謙)の耳に入ったとすれば、天皇は大変な不快感を覚えたことだろう。この酒宴が直接の原因かどうかは分からないが、この10日ほど後に次のような酒宴禁止令が下されている。ちょっと異常とも言える勅令である。

二月二十日 天皇は次のように勅した。

 時の必要に応じて制度を定めるのは、国を保持する昔からのきまりであり、時代を考えてそれに合った制法を立て行なうのは、昔の聖王の遺した大きな教えである。
 近頃、民間の宴会に集まるものは、ややもすると常軌を失い、あるいは同悪の者が集まり、みだりに聖者の政治をそしり、あるいは酔い乱れて節度をなくし、あげくに喧嘩沙汰に及ぶ。条理に立って考えると、はなはだ道理に背くことである。今後、皇族・貴族以下の者は、祭祀の場合と病気の治療をする時以外は飲酒してはならぬ。友人や同僚の者たち、遠近の親戚・知人らが暇のある日に、互いに訪問する時は、まず所属の宮司に申し出て、その後に集会を許すこととする。もし違反者があれば、五位以上の場合は、一年間封禄を停止し、六位以下の場合は、現職を解任する。これ以外の者は杖罪八十に処する。朕の願いは風俗を清らかにし、人がよく善をなし、知らぬ間に礼を身につけ、混乱を未然に防ぐことにある。


 そして家持は因幡国に左遷される。『万葉集』は家持の歌2首を掲載して終わっている。家持はここで筆を折ったのだろうか。ついでなので『万葉集』最後の2首も引用しておこう。

七月の五日、治部少輔大原今城真人の宅に、因幡守大伴宿禰家持に餞する宴の歌一首
秋風のすゑ吹き靡く萩の花ともに挿頭(かざ)さず相ひか別れむ
 〈右の一首は、大伴宿禰家持作れり。〉

三年春正月一日、因幡の國の廳にして、饗(あへ)を國郡の司等に賜ふ宴の歌一首
新(あらた)しき年の初めの初春の今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)
 〈右の一首は、守大伴宿禰家持作れり。〉


 家持は最後は中納言・従三位になっているが、「いや重け吉事」の願いは叶ったというべきだろうか。『続日本紀』は家持の死直後の事件を次のように伝えている。

 死後二十余日、家持の屍体がまだ埋葬されないうちに、大伴継人・大伴竹良(つくら)らが藤原種継を殺害、事が発覚して投獄されるという事件が起こった。これをとり調べると、事は家持らに及んでいた。そこで追って除名処分とし、息子の永主(ながぬし)らはいずれも流罪に処せられた。

 家持が継いだ由緒ある家系の大伴氏はここで絶えてしまったのだろうか。

 以上で「x皇子とは誰か」を終わります。
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