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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(46)

「天智紀」(34)


鎌足と鏡王女(14):x皇子とは誰か(7)


 「x皇子とは誰か」は三回ほどで終わるだろうと思って始めたが、次々と問題が広がって、思いがけず長くなってしまった。もう少しお付き合いください。前回、構想として頭の中にあったのに失念していたことがあった。それを補充することから始めよう。

 今問題にしている挽歌が施基皇子への挽歌であり、舞台が奈良であるとした場合、おかしなことがもう一つあった。二つの反歌の間の矛盾である。

 長歌によると、施基皇子を痛み悲しむ葬列は高円山に向かって進んでいる。高円山は平城京から南東方向に位置する(距離は3㎞ほどか)。下の地図では地図をはみ出した地点になるが、さらに同じ方向に同じぐらいの距離(約3㎞)を置いて春日宮天皇陵、つまり施基皇子の墓がある。春日大社と春日宮天皇陵のちょうど中間地点が高円山ということになる。ここを高円山の野邊というには遠すぎる。

(クリックすると大きくなります。)
奈良県地図

(地図の本「奈良大和路」より)

高圓の野邊の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人無しに(231)

 しかし、墓への道行きには「高圓の野邊」を通るし、そこが生前施基皇子が好んだ場所と考えれば、この歌と長歌とはよく呼応している。これに対して232番は奈良での歌とした場合相当おかしい。

三笠山野邊行く道はこきだくも繁(しじ)に荒れたるか久にあらなくに(232)

平城京
(周子啓明著「興福寺の仏たち」より)

 三笠山は春日大社と春日山の中間にある。高円山の野邊とも春日宮天皇陵とも全く関係ない地点である。

 さらに、平城京遷都は710年だった。施基皇子が亡くなった当時(716年)は、東大寺や春日大社はまだ建立されていなかったが、興福寺の中金堂は遷都後間もなく建立されている。714年には金堂供養が執り行われている。つまりこのあたりは平城京の郊外として急成長しつつあった場所である。若草山や三笠山は現在常に観光客で賑わっているように、当時も皇族や貴族たちの物見遊山の恰好の場所だったに違いない。三笠山の野邊が「こきだくも繁に荒れたる」状態になったとはとても考えられない。

 志貴皇子に関わる記録は矛盾・異例ずくめだ。それらは、地名「高圓」や「高圓離宮」が不在ゆえに状況証拠にしかならないが、すべて筑紫を指している。

 以上検討してきた矛盾や異例を取り上げている人はいないか、ネット検索してみた。すべてそれらの矛盾・異例は全く配慮されずに、当たり前のように「施基皇子=志貴皇子」となっている。「高圓離宮」についても、『万葉集』以外には登場しないことなどまるで問題にせずに、「聖武天皇の離宮だ」とか「志貴皇子の別荘だ」とか「聖武天皇の離宮も志貴皇子の別荘もあった」とか、無根拠の勝手な断定が行われ、大手を振って流布している。

 しかし、今まで挙げきたような矛盾点を見過ごすことなく、直視している人を1人発見した。図書館で小松崎文夫著『皇子たちの鎮魂歌』という本が目にとまった。「万葉集の〈虚〉と〈実〉」という副題が付いていたので興味が湧き借りて来た。志貴皇子に一章をさいている。小松崎さんは志貴にまつわる記事の問題点を次のようにまとめている。


 「霊亀元年歳次乙卯秋九月、志貴親王薨時」が、正史『続日本紀』の記録(霊亀二年八月十一日薨去)と異なる点をどう考えるか。さらに、名前の表記が、ここだけ(『万葉集』の)「志貴皇子」ではなく、正史の表記スタイル「志貴親王」となっているのはなぜか。


 これらは(第一部で触れた)いわゆる「寧楽宮(ならのみや)」の〝標目″(ひようもく)に含まれる歌群である。後補の「寧楽宮」(「平城宮」)の〝標目″とともに巻1・巻2とも巻末が一部欠落した、「志貴皇子関連歌」になっているのはなぜか。


 「笠金村」(かさのかなむら)の、いわゆる、「歌集出歌」(歌集の中に出ている歌)であるこの歌は、果たして〝笠 金村″自身の歌なのか。そして、後の「或本歌曰」(或る本歌(もとうた)に曰(い)はく)の二首(233・234番)を含めて、いつ作られた歌なのか。


 万葉歌人の中では、そう高い評価を得ている歌人ではないが、この歌に限って、語句類似など人麻呂傾斜は認められるものの、新しい技法や、型破りの独特の構成をもつと特異な評価を得ていることの問題。

 ①~③は私も指摘してきたことがらだが、④は、この挽歌の作者を笠朝臣金村として、金村の歌風を論じたものだろう。私のような門外漢には知ることのできない事柄だ。こういう観点からのアタックは私にはできない。

 では小松崎さんはこれらの矛盾をどう解いているだろうか。残念ながら小松崎さんは、ヤマト王権一元主義の立場に立つているので当然のことだが、直接正面から取り上げる論説はない。小松崎さんは「ここでは、多くは述べないが、……④について少しだけ触れておきたい」と①~③は置いて、④から説き起こしている。

 伊藤博氏は、これを「幻視(げんし)の作品」と言い、「仮構(かこう)の世界」と言った(『萬葉集の歌人と作品・下』塙書房)。私もそう思う。


 初めて現地を訪れて、(仮想の)〝高野原″から山を眺め、高円山から「街」を俯瞰(ふかん)した時にまずそれを実感した。しかし、それとは無関係に、私は現地で何度も何度もこの歌を口ずさんでいるうちに、ますますこの歌にのめりこんでいったのである。幻視であるがゆえの美しさ、仮構であるがゆえの悲しみ、そして、
「何しかも、もとな唱ふ」(どうして、お前さんは、よしなくも、そんなことを尋ねる のか?)……。
この問いかけの、果てしもない、その深さを知ったのである。

 「よしなくも」(意味もなく)どころか、意味はありすぎるほどある。ありすぎるけど言えない。そこにこそ、この歌の、すべてがある。核心がある。

 下田忠氏は「皇子の死を知らぬわれに対する、いらだだしさ、問うことの無意味さ、むしょうにじれったい心のゆらぎ、不安、空しさ」を訴えかけていると指摘された(「なにしかも、もとなとぶらふ - 笠金村挽歌の抒情」 『解釈』 昭和六十一年十月)。

(中略)

 私の耳には、嫋々(じようじよう)たる挽歌の鎮魂のしらべの中に、やや異質な忍びやかなすすり泣きが聞こえてくる。そこに、この挽歌のネガティブな告発が潜んではいないのか。それをこれから探ってみたい。

 不遇のうちに亡くなり、人知れず葬られてしまった皇子を哀悼する幻視(仮構)の歌だと言っている。時代を置いて作られたということだろうか。③に対する小松崎さんなりの答と考えてよいだろう。

 「嫋々(じようじよう)たる挽歌の鎮魂のしらべの中に、やや異質な忍びやかなすすり泣きが聞こえてくる。そこに、この挽歌のネガティブな告発が潜んではいないのか。」という小松崎さんの鑑賞は、鏡王女と引き裂かれたまま無念のうちになくなった志紀皇子への哀悼歌と考える私(たち)にも妥当なものと思われる。この小松崎さんの歌の鑑賞の深さには感心している。この挽歌をもとに小松崎さんが幻視した光景はなかなかいい。紹介しよう。

 新京の丑寅(うしとら)の方に位置する「高野原(たかのはら)」と呼ばれている小高い丘に集う人群(ひとむれ)がある。
 閉門を告げる「夜鼓」の音が聞こえて半刻程もたったであろうか。
 この丘陵から、「鼓」の発信源である陰陽寮(中務省)まではかなりの距離があるはずだが、雨あがりのせいであろうか、抑揚ある一二の鼓は驚くほど間近に響き伝わって来ていた。
 闇がすこしづつ人群を包んできていた。
 「左京」の張り出し、いわゆる「外京」の「多治比山部門」にわずかに残映を見る。その後方に、秀麗な「笠の山」の蔭が写される。その麓を見え隠れするおびただしい数の篝火に、集う人々は手を合わせているようだ。
 静かに静かに移ろう炬火(たいまつ)は、一旦地獄谷方面に吸い込まれるように消えたかと思うと、やがて、再び、迂回するように、高円山(たかまどやま)を巡ってゆっくりと進んで行く。
 人々の口からは、呟きがもれている。
 「天子さま、親王(みこ)さま」と聞こえる。
 どうやら、一幅の曼陀羅(まんだら)(春日宮曼陀羅)が人群の中心にあるようだ。

 新たに、この人群に加わったと思われる一人の小柄な若者が尋ねる。
 「春野焼く野火のようにも見えますが、あの炬火は何なのでしょう」
一人の老媼(おうな)が、振り返って、その若者をじっと見つめる。「あの炬火はね……」、老媼は、そこで言いさして、絶句する。
 その瞳は涙に濡れている。先刻までの冷たい秋雨のせいなのか、さめざめと流す涙のしたたりなのか、見れば、佇む人々は一様に皆その衣までもぐっしょりとそぼ濡れている。
 老媼は、合掌する掌をふるわせ、唇をわななかせて「あの灯火はね……」、咳き込むように、絶句を繰り返す。そして、「何しかも、もとな唁(とぶら)ふ」と呻吟(しんぎん)するように呟くのだった。
 一人が、見かねたように老媼を抱きかかえ、代わって答える。
 「あれは……、神の御子、志貴親王(しきのみこ)さまの葬送の送り火なのですよ。ある事情がありまして、寂しい野辺送りなのです」
一人がすすり泣くように歌を口ずさむ。

高圓の 野邊の秋萩 いたづらに 嘆きか散るらむ 見る人なしに

 別な一人が、これもまた、呻吟するように、上二句はそのまま下三句を変えて歌い継ぐ。

高園の 野邊の秋萩 な散りそね 君が形見に 見つつ偲(しの)ばむ

 すると、また一人、今度はトーンを揚げて歌い始める。

三笠山 野邊行く道は こきたくも 繁(しじ)に荒れたるか 久にあらなくに

 ただ、なぜか、最後の長音句「久にあらなくに」をトーンを落としうめき呟く。
 すると、一つの若い声がそれに反発するかのように、あえて、その句を高らかに復唱する。
 久にあらなくに」(そんなに昔のことでもないのに)
 人群は、そこで周囲をはばかるように、互いを見交わすのだった。

 篝火は、やがて、ひとつ、そしてまたひとつ、山の向こうに沈んでゆくと、人群もまた、鼻をかみわたし、無言のまま家路につくようであった。
 老媼ひとり、御輿(みこし)の人になったが、そのいでたちは、決して並のものには見えなかった。

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