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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(45)

「天智紀」(33)


鎌足と鏡王女(13):x皇子とは誰か(6)


 志貴皇子に捧げられた挽歌に現れる地名について、新庄さんは次のように書いている。


「天皇は、国家もまた青春も総てを失って、筑紫春日三笠山の中腹、高円の奥津城に眠られたのです。」


「以上は志貴天皇の死を悼むものです。この高円とは筑紫の三笠山へ登る中腹の円形に近い台地をいうものではないのでしょうか。

 私(たち)は既に「春日なる三笠の山」が「筑前御笠郡の宝満山」であることを知っている。その御笠山に、新庄さんが言うように、「高円」と呼ばれる台地があるのなら問題ないのだが、ここでも新庄さんの根拠は曖昧である。①ではあることを確信しているように書いているが、②では推測しているにすぎない書き方をしている。現地の方にお聞きすれば、現在その地名があるかないかは分かるわけだが、たとえ現在はないとしても古代に通称的に使われた地名ならば現在に残らないこともあるだろう。やはり文献的に考証するほかあるまい。

 新庄さんが志貴皇子を悼む歌として最後に挙げていた五首の歌の題詞は
「興に依りて各々高圓の離宮處(とつみやどころ)を思いて作る歌五首」
だった。「高圓山」については「定説」は当然のこと奈良県の高円やまを比定している。しかし、「山」のない「高圓」については戸惑いを見せている。「高圓の野」(4295番の題詞)について次のような歯切れの悪い頭注を付けている。

「その(高円山)の麓の地をいうか。野は傾斜地や高原をいうことがある。」

 そして「高圓の離宮」については「高円山にあった離宮」とだけ注記している。これだけならわざわざ注記の必要はないだろうに、言わずもがなのことを言っていることを不審に思った。たぶん「高圓の離宮」を比定できないのだろうと思って、『続日本紀』に出てくる離宮をすべて調べてみた。驚いたことには「高圓の離宮」はない。高圓山や高圓という地名もまったくない。もしかして行宮(かりみや 『続日本紀』では頓宮と表記している)なのかと思って調べたがやはりない。念のため『日本書紀』にも当たってみた。やはりない。(このとき「磐瀬行宮」に出会ったのでした。)比定できないどころか、『万葉集』以外の史料には「高圓」という地名は存在しないのだった。

 志貴皇子に関わる記録は異例づくめである。前回、巻1の末尾の歌を取り上げたが、そこに「寧楽宮」という異例の標目があった。実は上の志貴皇子の挽歌は巻2の末尾を飾る歌である。その挽歌の前に歌が2首(228・229番)あるが、それらの歌の前にも「寧楽宮」という異例の標目がある。その2首と志貴皇子の挽歌を同じ標目内の歌として扱っていることになる。その2首も含めて、あらためて巻2の末尾を見てみよう。

寧楽宮

和銅四年歳次辛亥、河邊宮人(かはべのみやひと)が姫島の松原にて嬢子(をとめ)の屍(しにかばね)を見て悲しび嘆きて作る歌二首

妹が名は千代に流れむ姫島の小松の末(うれ)に蘿(こけ)むすまでに(228)
難波潟潮干(しほひ)なありそね沈みにし妹が光儀(すがた)姿を見まく苦しも(229)

靈龜元年歳次乙卯の秋九月、志貴親王の薨りましし時の歌一首〈并に短歌〉

梓弓 手に取り持ちて 大夫(ますらを)の 得物矢(さつや)手(た)ばさみ 立ち向ふ 高圓(たかまと)山に 春野焼く 野火と見るまで もゆる火を いかにと問へば 玉桙(たまほこ)の 道來る人の 泣く涙 霈霖(ひさめ)に降りて 白栲(しろたえ)の 衣ひづちて 立ち留り 吾に語らく 何しかも もとな唁(とぶら)ふ 聞けば 哭(ね)のみし泣かゆ 語れば 心ぞ痛き 天皇の 神の御子の いでましの 手火(たび)の光ぞ ここだ照りたる

高圓の野邊の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人無しに(231)
三笠山野邊行く道はこきだくも繁(しじ)に荒れたるか久にあらなくに(232)

〈右の歌は、笠朝臣金村の歌集に出づ。〉

〈ある本の歌に曰く〉
高圓の野邊の秋萩な散りそね君が形見に見つつ偲はむ(233)
三笠山野邊ゆ行く道こきだくも荒れにけるかも久にあらなくに(234)


 228・229番の舞台となっている姫島についての頭注は次のようである。

「記紀、続紀にも見え、摂津(大阪府)の地名であることは知られるが、その位置には諸説があり、未だ確定しない。」

 また229番の難波潟については「難波の海の浅瀬。」とある。

 姫島といえば、私ならすぐに国東半島の突端にある姫島を考える。ヤマト王権一元主義者たちは、無意識の場合もあるかも知れないが、いかにしても九州を除外しようとする。彼らにとっては「難波」といえば大阪だから、姫島も大阪なのだろう。頭注は「記紀、続紀にも見え」と言っているので調べてみた。『古事記』では見つけることができなかった。『日本書紀』では「姫嶋」という表記で一例、『日本書紀』と『続日本紀』では「媛嶋」という表記でそれぞれ一例ずつ見いだした。「姫嶋」を見てみよう。「敏達紀」12年是歳条「任那復興」の記事である。長いお話なので、該当部分だけ現代語訳(講談社学術文庫・宇治谷孟訳)で引用する。

「使いを肥後の葦北に遣わし、日羅の一族を呼び、心のままに徳爾らの罪を償わせた。この時葦北君らは、これを受取り殺して弥売島(みめじま)に捨てた。」

 記事は言うまでもなく倭国や百済の史料からの盗用である。日羅(百済人)という倭国への協力者を同じく百済人の随行者・徳爾等が暗殺をした事件の顛末が述べられている。弥売島について原文には「彌賣嶋は、蓋し姫嶋なり。」という分注がある。また岩波大系の頭注は
「淀川河口にあった島。今の大阪西淀川区姫島町の位置。」
と述べている。この暗殺者の処刑の舞台は肥後だ。そうすると、どう読んでも「姫嶋」はあの国東半島の姫嶋だよね。もう病膏肓もいいところ、私には学者さんたちの頭が理解できない。

 さて、これで『万葉集』の姫島も国東半島の姫島だと言う可能性が出て来た。ではそのあたりに「難波」があるだろうか。ある。豊前に難波がある。古田古代史会では盛んに論じられていて周知の事実だ。いろいろ論じられている中で、根拠の一つに正倉院文書が挙げられている。その文書の豊前の戸籍の中に難波部があるという。ちなみに、作者・河邊宮人は「伝未詳」。伝未詳者は九州王朝ゆかりの人物と見てまず間違いないだろう。

 次に志貴皇子の挽歌の方を検討しよう。ここでもいきなり異例にぶつかる。題詞が異例なのだ。一つは、『万葉集』では他のすべてでは「志貴皇子」と表記しているのに、この挽歌だけは「志貴親王」と『続日本紀』の表記を用いている。ことさら『続日本紀』の死亡記事と重ねようとしている意図が感じられる。

 もう一つ、題詞の文体が異例である。この種類の題詞は「……の時、……が作る歌」というように作者がはっきり示されているのが普通だ。作者が不明というのが異例なのだ。左注に「笠朝臣金村の歌集に出づ」とあるので、笠金村が作者だとする人もいるが、それならそうと書けば足りることで、このような左注は無用であろう。

 『万葉集』の編纂者が利用している資料ではっきりしているのが5種類ある。まず「古集」。古田さんはこれを「倭国万葉集」と呼んでいる。最も頻繁に用いられているのが「柿本朝臣人麻呂歌集」。そのほか、上の「笠朝臣金村歌集」のほかに「高橋連蟲麻呂歌集」・「田邊福麻呂歌集」がある。どれも自分の歌だけを集めたのではなく、作歌の研鑽のためにいろいろな歌を集めていたようだ。また、挽歌中にあるように、「ある本」と名を明らかにしない歌集もある。ちなみに、個人歌集に名を連ねている4名はいずれも「伝未詳」。

 もとになっている歌集でも作者の名前が書かれていなかったのだろうか。知るよしもないが、『万葉集』の編纂者が故意に書き落としたと考えられなくもない。施基皇子は716年に亡くなっている。『万葉集』1巻~16巻の編纂は745年に終わっているという。この挽歌が施基皇子を悼んだものとする場合、皇子と呼ばれる人物を悼んだうたの作者の名がわずか30年ほどで忘れられたことになる。私にはとても信じられない。私はこの挽歌は、新庄さんの言う通り、九州王朝の志貴皇子へ捧げられたものと考える。
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