2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(44)

「天智紀」(32)


鎌足と鏡王女(12):x皇子とは誰か(5)


 今回のテーマに入る前に前回の記事の補足をしたい。実は、前回「磐瀬」を博多のあたりとする新庄さんの説について「ちょっと引っかかるが、……信用することにしよう」と書いたが、今回の記事のための調べ事をしていて、新庄説の正しいことを示す記事に出会ったのだ。

 今回のための調べ事とは、『日本書紀』・『続日本紀』に出てくる「離宮(とつみや)」や「行宮(かりみや)」を調べることだった。その過程で偶然にも「斉明紀」6年3月25日条にある「磐瀬行宮」という記録を知った。その頭注は次の通りである。

「延喜兵部式の筑前国の駅名に石瀬がある。宣化元年五月条の那津屯倉、和名抄那珂郡三宅郷。今、福岡市三宅の地か。」

 「『日本書紀』にははっきりと「筑前の磐瀬」が出てくるのに、『万葉集』の学者たちはそれにはそっぽを向いて、大和の中で無いものねだりをしている。前回検討したように(3)1419番と(4)1466番は、いまだ倭国が健在だった頃、鏡王女と志貴皇子が交わした相聞歌だった可能性がいよいよ大きくなってきた。

 さて今回は、新庄さんが志貴皇子の歌として挙げている(5)・(6)の検討から始めよう。

(5)
志貴皇子の御作歌
葦辺ゆく鴨の羽がひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ(64)


(6)

志貴皇子の御歌一首
鼯鼠(むささび)は木未(こぬれ)求むとあしひきの山の猟夫(さつを)にあひにけるかも(267)


 実は志貴皇子の歌は、新庄さんが故意に避けているのではないと思うが、ほかに次の歌(51番)がある。

明日香の宮より藤原の宮に遷居(うつ)りし後、志貴皇子の御歌
采女(うねめ)の袖吹き反す明日香風都を遠みいたづらに吹く


 これは明日香で詠まれた歌なので、題詞が信用できるとすれば、明らかに施基皇子の歌ということになる。他の志貴皇子の歌と比べると全く調べが異なるし、凡庸で深みのない駄作と思える。そういえば巻1の最後におかしな収録歌(84番)がある。

寧楽宮
長皇子、志貴皇子と佐紀宮にて倶に宴(うたげ)する歌

秋さらば今も見るごと妻恋に鹿(か)鳴かむ山そ高野原の上

右の一首は、長皇子。


 題詞が正しいとすれば、長皇子(天武の子)と宴をしているのだからその相手の皇子は明らかに施基皇子だ。何がおかしいかというと、長皇子の歌だけで施基皇子の歌がない。また「寧楽宮」という未完成な「標目」が付けられている。編纂者が書き落としたとも考えられるが、もしかすると施基皇子は歌が苦手だったのかも知れない。ともあれ、『万葉集』が志貴皇子の作としている歌には施基皇子の歌も混在しているようだ。

 以下は単なる推測にすぎないが、『続日本紀』の「志貴」という異例の表記は『万葉集』からの転用ではないだろうか。そのようにして『万葉集』の志貴皇子と施基皇子の歌の題詞に全て「志貴」を用いて、すべてを施基皇子の歌のように改竄した。いわば九州王朝の「志貴皇子」隠しである。

 もし上の推測が正しければ、地名のような確かな根拠のない歌は、どちらの皇子の作かの判定は難しい。つまり(6)は志貴皇子の作とは断定できない。むしろこれも、他の志貴皇子の歌と比べると異質で、調べも内容も見劣りがする。どちらかというと施基皇子の歌ではないか。

 (5)はどうだろうか。大和にいる人が「大和し思ほゆ」などと詠うのはおかしい。施基皇子の歌とは考えがたい。一方、筑紫にいる志貴皇子が、冬の寒い夜、大和にいる鏡王女を思いやり偲んでいる歌と考えると理にかなった歌ということになる。

 実は(5)の前には、その前後とは孤立した形で、「慶雲三年丙午、難波の宮に幸しし時」という異例の題詞が置かれている。岩波大系の頭注も
「この書き方は異例なので、脱字説やすぐ次の題詞につづけて解する説がある」
と書いている。「すぐ次の題詞につづけて解する」というのは(5)の題詞の一部と考えるということである。こちらの説が正しい場合、(5)は施基皇子の作となるだろうか。

 慶雲三年の難波行幸は『続日本紀』では次のように記録されている。

九月……丙寅、難波に行幸したまふ。 冬十月壬午、宮に還りたまふ。

 上の宙ぶらりんの題詞の異様さはその内容にもある。『続日本紀』では干支を使って表わすのは日付だけである。題詞の干支「丙午」は何を表わしているのだろうか。日付だとしたら月名が欠けている。しかも『続日本紀』の干支「丙寅」と異なる(20日ずれている)。あるいは干支「丙午」で月を示しているのだろうか。いずれにしても実に曖昧な題詞だ。さらに、これと同種類の題詞は「(どこそこ)に幸しし時(だれそれ)の作る歌」とか「(どこそこ)に幸しし時の歌」となっている。つまりくだんの題詞は未完成の全くの欠陥文である。『万葉集』の編纂者はこれを削除しようと思っていたのに、削除し忘れたのではないか。

 「すぐ次の題詞につづけて解する」説が正しいとしても、やはりおかしな歌になることに変わりはない。丙寅(25日)から壬午(12日)までの17日間の行幸である。行幸を終えて大和に帰ってきた冬十月は現在の暦で言えば11月頃に当たる。2010年では旧暦の10月12日は11月17日に当たっている。1300年ほど前と現在とでは気候変動があって単純な比較はできないだろうが、おおよその目安として、1971~2000年の平均の初霜日は大阪では11月30日前後である(ウィキペディア)。11月中頃で「霜降りて寒き夕べ」というのは、年によってはあり得るだろうが、まずは滅多になかったと思われる。また難波と大和は指呼の間、しかも不自由のない離宮に居住して、たった17日間大和から離れていただけだ。それで「大和し思ほゆ」というのではピント外れの大げさな歌ということになろう。

 以上により。(5)も施基皇子の歌ではなく、志貴皇子の歌である可能性が大きい。

 さて、次に新庄さんは91番の題詞にある「天皇」と結びつけて、「その天皇が志貴天皇であった」としているが、これは早急な勇み足だろう。ここでは天皇は明らかに天智を指している。もちろんこれは『万葉集』編纂者による作為的なはめ込みで、本来は天智の歌ではない。しかしもとの題詞が不明なのだから、はめ込まれた題詞を根拠に「志貴天皇」というのは乱暴すぎる。白村江の戦いで捕囚となった倭国の天子・薩夜麻の安否が不明なまま、誰かが天子を継承したとは考えがたい。また新庄さんが志貴皇子の死を悼む歌としている230番の長歌では、「天皇」ではなく「天皇の神の御子」となっている。ここでは新庄さんの論説はだいぶ混乱している。次回はその挽歌を検討してみよう。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1477-95fd5f03
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック