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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(43)

「天智紀」(31)


鎌足と鏡王女(11):x皇子とは誰か(4)


 今回から『万葉集』の志貴皇子の歌を検討する。まず、新庄さんが挙げている(1)~(4)を見てみよう。

(1)
志貴皇子の御歌一首
大原のこの市柴(いちしば)の何時しかとわが思ふ妹に今夜逢へるかも(513)


(2)
志貴皇子の懽(よろこび)の御歌一首
石そそく垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも(1418)


(3)
鏡王女の歌一首
神奈備(かむなび)の伊波瀬の社(もり)の喚子鳥(よぶこどり)いたくな鳴きそわが恋益(まさ)る(1419)


(4)
志貴皇子の御歌一首
神名火の磐瀬の社のほととぎす毛無(ならし)の岳(おか)にいつか来鳴かむ(1466)


 まず、(1)にある「大原」という地名について検討してみよう。「大原」を詠み込んだ歌は(1)のほかに2歌ある。

 「大原」の初出は、むかし『万葉集』を拾い読みしていたときに印象に残った歌の一つで、『万葉集』にはめずらしくとってもユーモアのある贈答歌(103番・104番)である。

明日香清御原宮に天の下知らしめしし天皇の代〈天淳中原瀛真人天皇、諡して天武天皇といふ〉

天皇、藤原夫人(ぶにん)に賜ふ御歌一首
我が里に大雪降れり大原の古りにし里に落(ふ)降らまくは後(のち)

藤原夫人、和へ奉る歌一首
我が岡の龗(おかみ)に言ひて降らしめし雪の摧(くだ)けしそこに散りけむ


 蛇足じみた解説を付けると、
「こっちには大雪が降ったが、おまえさんの古びた里に降るのはもっと後だね。」
「わたくしの方の神様に言いつけて降らせた雪のかけらがあなたの方に降ったんでしょうよ」
と軽妙にやり合っていて、ほほえましい。

 「藤原夫人」と「大原」についての岩波大系の頭注は次の通りである。

「藤原夫人―鎌足の娘、五百重娘。新田部皇子の生母。夫人は妃と嬪との間の地位で、天皇に侍す。」

「大原―奈良県高市郡明日香村小原。鎌足の誕生地。藤原夫人の居所だったらしい。清御原の宮からは一粁も離れていないくらい近い所。」

 大胆にも明日香村小原を鎌足の誕生地と断定している。この問題は検討済みなので、ここでは立ち入らない。

 513番の頭注は103番の頭注を参照せよとなっている。もう一つの該当歌は2587番の次の歌である。

大原の古りにし里に妹を置きて吾(あれ)い寝かねつ夢に見えこそ

 「大原の古りにし里」と103番と同じ詩句が使われている。一種の常套語だったのだろうか。その頭注は103番とほとんど同じで次のようである。

「「大原―奈良県高市郡明日香村小原であろう。」

 どうして「大」と「小」の違いを無視するのかと疑問に思っていたが、「小原」の方の読みは「おうはら」だという(犬養孝著『万葉の旅』で知った)。でも「おおはら」=「おうはら」というのもなんだかな?、と思う。だからだろうか、103番の頭注は断言しているように読めるけど、2587番では推量になっている。やはり「大原=小原」には確かな根拠はないようだ。

 「大原の古りにし里」が常套句だとすれば「大原」は普通名詞とも取れる。また福岡県田川郡には大原という地名がある。ここは地図上では大原と記されているが、行政区名は福岡県田川郡赤村赤大原となっているのでここが「大原」とは確定できない。また太宰府市に大原山がある。このあたりを「大原」呼んでいた可能性はある。「大原」を詠み込んだ歌は筑紫で詠まれたという可能性は高い。

 (3)・(4)の「磐瀬の社」については、岩波大系の頭注は

「大和のうちにあるが、諸説があり未確定。生駒郡斑鳩町竜田の西南の車瀬の森、同郡三郷村大字立野字高山の上方の三室山、高市郡飛鳥地方のどこかなど言われている。」

と書いている。どこだか分からないと言いながら「大和のうちにある」と断定しちゃうんですね。『万葉の旅』で関連事項を調べてみたら「三郷村高山の大和川の岸に桜の小森があって「磐瀬の杜」の碑を立てている」とあった。まだ確定できていないのに碑を立てちゃうとは、いやはやすごい神経だ。いくら「ご当地ソング」が欲しいからといえ、乱暴な振る舞いだ。さすがに犬養さんは「これは諸説のあるところだ」と苦言を呈している。

 (4)の「毛無(ならし)の岳」は「毛無」を「けなし」と読む説もあって、読み方すら確定されていない。もう頭注の引用はしないが、もちろん場所の比定も数説あって確定されていない。この場合も学者たちは大和の中だけを探し回っている。

 さて(3)・(4)の「磐瀬の杜」については新庄さんが「古地図に見え、博多から西へ古代国道ぞいにあり、側に額田の地名もあります。」と書いている。どういう「古地図」を使ったのかを典拠を明らかにしていない点がちょっと引っかかるが、「博多から」云々と具体的に位置を書いているので信用することにしよう。『万葉集』に「磐瀬の杜」を詠い込んでいる歌がもう一つある。(1470番)

刀理宣令(とりのせむりやう)が歌一首
もののふの石瀬の杜の霍公鳥今も鳴かぬか山の常蔭(とかげ)に


 この歌についても新庄説に不都合はない。むしろ「刀理宣令」という名前が筑紫っぽい。もともとは倭国の人のようだ。以下、新庄説を正しいものとして論を進める。

 新庄説が正しいとすると(3)と(4)は筑紫で詠まれた歌ということになり、ここの志貴皇子は施基皇子(『日本書紀』・『続日本紀』の「しき」皇子を「施基」皇子で表わすことにする。)と別人と言うことになる。また、(3)・(4)はそれぞれ巻8の「春の雑歌」・「秋の雑歌」に区分されてかなり離れたところに置かれているが、(3)は誰が見たって「相聞歌」だし、(3)・(4)を上のように並べてみれば、明らかに鏡王女と志貴皇子との贈答歌である。この場合、(4)が「贈」歌であり、(3)が「答」歌とするとピッタリと治まる。

 (2)は私も暗唱している有名な歌だ。私は単純に、ものがみな生き生きとしてくる早春のさわやかの中で、何か大きな喜びを予感している若々しい心を感じ取っていたと思う。この題詞の「懽(よろこび)」についても岩波大系はおかしな頭注を書いている。

「なんの懽よろこびか不明。増封あるいは位階昇進の時の作とも、宴飲の際の歌ともいう。」

 「増封」や「位階昇進」や「宴飲」の喜びなどという考えは、発想の貧しい私にはとうてい思いつけない。「恋」の喜びなら歌の調べともぴったりで私にも納得できる。そして、(4)・(3)・(1)・(2)という順に並べると(1)・(2)もさらに生き生きとしてくる。

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