2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(42)

「天智紀」(30)


鎌足と鏡王女(10):x皇子とは誰か(3)


 新庄説を検討してみよう。まず『続日本紀』の志貴皇子の死亡記事についてのコメントをもとに『続日本紀』の史料批判をしておく。

「七番目だけが何故天皇と尊号を付けられたのでしょうか。死んで50年も経ってからです。天智天皇の子息で天皇になったのは大友皇子ただ一人のはずですが、これはどういうことでしょうか。私には九州倭国の歴史からの盗用記録のように思えるのです。」


『日本書紀』は万世一系を偽装するために、九州王朝の存在を隠蔽する必要があった。そのために『日本書紀』にはそこら中に九州王朝の史料からの盗用記事がある。それに対して『続日本紀』は、名実ともに日本の中心権力となってからの近畿王朝の正史であるから、九州王朝の史料からの盗用は必要ないだろう。だから私は志貴皇子の死亡記事が「九州倭国の歴史からの盗用記録」ということはあり得ないと思う。

 ただし、政治権力側が編纂した正史には、どこの国のものであっても、大義名分のための粉飾や、意図的に書かないという隠蔽があることは言うまでもないだろう。また、『万葉集』は倭国のさまざまな歌集からの盗用で成り立っている。すでに何例か見てきて通り、『万葉集』では九州王朝の痕跡を払拭するために『日本書紀』や『続日本紀』との整合性を整えるいう意味での剽窃がたくさんある。

 以下、志貴皇子の死亡記事が九州王朝の記録からの盗用ではあり得ないことを知るために、自らの学習を兼ねて、『続日本紀』の記述を詳しく読んでいこうと思う。

 「死んで50年も経ってから……何故天皇と尊号を付けられたのでしょうか」という新庄さんの疑問には『続日本紀』自身が答えている。『続日本紀』での天皇号追尊例は志貴皇子のほかに2例ある。


一つは草壁皇子で758年(天平宝字2)年8月9日に追尊されている。ヤマト朝廷初代天皇の文武は草壁の第2子である。草壁は『続日本紀』では日並知(しなみし)皇子と呼ばれている。(この呼び名については後に取り上げる予定です)(以下、講談社学術文庫の宇治谷孟による現代語訳版を使用する。)


日並知皇子命(草壁皇子)は、世間ではまだ天皇と称されていない。しかし皇子の如き 人に、天皇の尊号を追贈することは古今の恒例である。今後、岡宮御宇天皇(おかのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)と称し奉るべきである。



 もう一例は舎人(とねり)皇子で759(天平宝字3)年6月16日の勅令で追尊されている。

 朕もまた思うのに、「さきの聖武天皇の皇太子と定めて頂き、天皇の位に昇らせ頂いたのに、どうして恐れ多くも私の父母兄弟にまで及んでよいでしょうか。まことに恐れ多いことであります。どのように進退すべきかもわかりません」とご辞退申し上げた。

 しかしながら度重なって仰せられるには「私がこのように言わなくなったら、あえてこのように言人は他にいないであろう。およそ人の子が禍いを除去し、幸福を蒙りたく思うのは、親のためにということである。天皇となったこの大福を取りあげまとめて、それを親王(舎人))にお贈り申し上げよ」と教えさとされるお言葉を承って、次のようにする。そこでこれからは父の舎人親王に天皇の称号をお贈りして、崇道尽教皇帝(すどうじんきようこうてい)と称し、母の当麻夫人(たぎまのぶにん)を大夫人と称し、兄弟姉妹をすべて親王と称するように……


 ①・②はともに淳仁天皇による追尊であり、一年を置かずに行われている。下の天皇位継承図を見れば、その追尊の意味は明らかである。

 (第一学習社「新選日本史図表」より)
初期天皇系図
 (教科書などでは志貴皇子の表記は「施基」を用いているようだ。)

 聖武の後を継いだ孝謙は、聖武天皇の遺言によって立太子した道祖(ふなと)王を廃して、淳仁を太子とした。これは当時朝廷内で第一権力者であった藤原仲麻呂(後の恵美押勝)の強い推挙があったようだ。淳仁はそれまでの文武から孝謙までの系統からぽつんと外れた位置にある。本来は自分の父親・舎人を追尊したかったが、自らの権力基盤の脆弱さを思いそれに先だって、今までの系譜の淵源である文武の父親・草壁を追尊した。父親に対する追尊には先帝からの勧めによるという名目を設けている。

 後に淳仁は恵美押勝の乱に関わったとして淡路に追放され、後継は孝謙が重祚している。称徳天皇である。『続日本紀』では淳仁はすべて「廃帝」と記されている。「淳仁」は明治になってから送られた諡号である。


 770(宝亀元)年11月6日条の追尊の勅令は次のようである。

 朕は拙く愚かな身でありながら、天皇の大業を受け継いで、畏れかしこまり、進退をどうしてよいのか分からないのであるが、貴く喜ばしい先帝のお言葉を自分独りだけがうけたまわれようかと思い、法にしたがって、口に出すのもおそれ多い春日宮においでになった皇子を、天皇と称したてまつり、また、兄弟姉妹と朕の皇子たちを、すべて親王・内親王として冠位を上げ、しかるべく取り計らうこととする。

 ③は光仁天皇による追尊である。ここで皇統は天武系から天智系へ移動した。光仁が日陰の人のように生涯を送った父親・志貴皇子を追尊したくなるのは当然だろう。しかしここでも「先帝のお言葉」に従ったという名目を設けている。
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