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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(42)

「天智紀」(30)


鎌足と鏡王女(10):x皇子とは誰か(2)


 まず『日本書紀』と『続日本紀』に現れる志貴皇子を見ておこう。全て必要かどうか分からないが、一応全てを調べておく。

 『日本書紀』には「志貴」という表記はない。『日本書紀』では大王即位の記事の後で必ずその大王の諸妃とそれぞれの妃が産んだ子を記録している。「天智紀」では668(天智7)年2月23日の記事である。そこでは

越の道君伊羅都売(いらつめ)有り、施基皇子を生めり。

とあり、「施基」と表記している。母親について、岩波大系の頭注は「采女か。本名、生没年など未詳。」と書いている。(以下、本文では『万葉集』で一貫して使われている「志貴」という表記を仮に本名として扱っていく。)

 その記事に出てくる天智の皇子は大友・建(たける)・川嶋・志貴(出生順)の四人である。建皇子以外の母親は皆身分の低い側室である。建皇子は正妻の子だが、「唖にして語ふこと能はず」と記録されている。病弱な子だったようで、8歳でなくなったという。周知のように大友皇子は壬申の乱に敗れて自死。川嶋皇子は691(持統5)年に亡くなっている。従って天智の皇子でONライン(701年)を越えて生存したのは志貴皇子一人だけということになる。

 志貴皇子の「施基」という表記は上の一回だけである。次に「天武紀」に二回、「持統紀」に一回登場するが、「天武紀」では「芝基」、「持統紀」では「施基」を用いている。

679(天武8)年5月6日
天皇、皇后及び草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子に詔して曰はく、「朕、今日、与汝等と倶に庭に盟いて、千歳の後に、事無からしめんと欲す。奈之何(いかに)。」……


 皇位継承の争い事をしないことを皇子たちに誓わせる記事である。河嶋皇子(表記が異なるが川嶋皇子と同一人物)と志貴皇子以外は天武の子である。次は食封の加増記事。

686(朱鳥元)年8月15日
芝基皇子・磯城皇子に、各二百戸を加したまふ。


 「磯城」も「しき」と読むが、もちろん別人物でこちらは天武の子である。

689(持統3)年6月2日
皇子施基・直広肆佐味朝臣宿那麻呂・羽田朝臣齊(むごへ)・勤広肆伊余部連馬飼・調忌寸老人(おきな)・務大参大伴宿禰手拍(てうち)と巨勢朝臣多益須等(たやすら)とを以て、撰善言司(よきことえらぶつかさ)に拝す。


 「撰善言司」は岩波大系の頭注には「善言という題の書物を撰進するために設置された官司」とある。『日本書紀』での志貴皇子の記事はこれで全部である。

 このような異なる表記は編纂者による使用漢字の趣味の違いなのか、あるいは用いる資料に忠実に従ったための違いなのか、知るよしもないが、『日本書紀』や『続日本紀』の編纂者たちの頭の中をいぶかしく思うばかりである。

 それでも『日本書紀』の場合は「天智紀・天武紀」では「施基」、「天武紀」では「芝基」と、一応区分できるが、『続日本紀』の場合はひどい状況だ。そこでは『日本書紀』とは全く異なる表記「志貴」・「志紀」が混用されている。また称号は「皇子」ではなく「親王」に変わっているが、こちらは大宝律令に従って「親王」を使うようになったということで、一応統一されている。志貴皇子の最初の記事は703年で「天武紀」の最後の記事から14年も経っている。

703(大宝3)年
9月3日
四品志紀親王に近江国の鉄穴(てつけつ)を賜ふ。
10月9日
……四品志紀親王を造御竈長官(みかまつくるつかさのかみ)とす。……


 「鉄穴」というのは鉄鉱石の取れる場所、つまり鉱山の一部であろう。また「造御竈」というちょっと変わった職名は「火葬設備の造営」と説明されている。700(文武4)年に「初めて火葬が行われた」という記事がある。もちろんこれはヤマト朝廷内での話である。福岡県の宮地嶽古墳(古墳時代後期)から火葬された骨が入っている骨壺が出土している。

704(慶雲元)年正月11日
二品長親王・舍人親王・穂積親王・三品刑部親王に封各二百戸を益す。三品新田部親王・四品志紀親王には各一百戸、……

707(慶雲4)年6月16日
三品志紀親王・正四位下犬上王・正四位上小野朝臣毛野・従五位上佐伯宿禰百足・従五位下黄文連本実等を以て殯宮の事に供奉(つかへまつ)らしむ。(注:前日に文武が死去している。)

708(和銅元)年正月11日
……是の日、四品志貴親王に三品を授く。……


 ここで初めて「志貴」という表記が出てくる。でもちょっとおかしい。この年(708年)に「三品」を授けられたのに、707年の記事で「三品」となっている。志貴と志紀は別人だと思いたくなってしまう。しかし、磯城皇子は天武の皇子として出生が記録されているから明らかに志貴皇子とは別人だが、志紀皇子という名での出生記事はないのだから志貴皇子と志貴皇子とは別人だと考える根拠はない。上の二つの記事の矛盾はミスと考えざるを得ないだろう。

714(和銅7)年正月3日
二品長親王・舍人親王・新田部親王・三品志貴親王に、封各二百戸を益す。……

715(霊亀元)年正月10日
……内外の文武の官六位以下に位一階を進む。また二品穂積親王に一品を授く。三品志紀親王に二品。……

716(霊亀2)年8月11日
二品志貴親王薨しぬ。従四位下六人部王・正五位下県犬養宿禰筑紫を遣して。喪事を監護(みも)らしむ。親王は天智天皇第七の皇子なり。宝亀元年、追尊して、御春日宮天皇と称す。


 『日本書紀』によれば天智の皇子は4名しかないのに「第七の皇子」となっている。岩波大系の補注では「したがって天智皇子は少なくとも七人いたとみることができる」と述べている。建皇子のように夭逝した皇子でさへ国書に記録されている。国書に全く名が出てこなく確認のしようのない者まで数に入れるのはおかしい。『続日本紀』の記事が間違っているとする方が順当だと、私は思う。

 ちなみに追尊については、770(宝亀元)年11月6日の勅令の中に確かにそのことが述べられている。

 志紀皇子ように4通りもの違った表記をもつ例は他にないのではないか。たいした意味はないだろうが、天智と天武の子で複数の表記があるものを調べてみた。14名中4名が該当する。岩波大系の頭注には「長=那我」という指摘があったが、『日本書紀』・『続日本紀』・『万葉集』では確認できなかった。(数字は「紀・続紀」での出現回数)

天智の皇子

「川嶋7・0=河嶋1・0」(691年に亡くなっているので当然『続日本紀』には出てこない。)

「施基1・0=芝基2・0=志紀0・5=志貴0・3」
天武の皇子

「忍壁9・1=刑部0・7」

 ③では『続日本紀』に「忍壁(おさかべ)」が一例だけあるが、これは最後の死亡記事で使われている。『日本書紀』を参照したものと思われる。他は一貫して「刑部」だから混用とまでは言えないだろう。これに対して志貴皇子の方は、『日本書紀』の表記とは全く違う2通りの表記を、しかも混合して用いている。この表記方法はまさに異例である。
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