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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(41)

「天智紀」(29)

鎌足と鏡王女(9):x皇子とは誰か(1)

 少し戻ります。「鏡王女の出自」で相聞歌(91・92番)の鏡王女の相手を取りあえずx皇子としておいた。この皇子を新庄さんは志貴皇子だという仮説を提出している。これを検討してみようと思う。まず新庄さんの論考を読んで見よう。(見やすくするため引用文中の数字は算用数字などで書き換えた。また万葉歌は岩波大系版によって書き換え、題詞や左注なども復元した。)

 志貴皇子とは『万葉集』では一際目立つ秀歌を残された皇子です。この方の歌が好きで『万葉集』の中を追って見ました。

(1)
志貴皇子の御歌一首
大原のこの市柴(いちしば)の何時しかとわが思ふ妹に今夜逢へるかも(513)


(2)
志貴皇子の懽(よろこび)の御歌一首
石そそく垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも(1418)


 この二つの歌は愛する妹に逢えたことの喜び、青春の輝きを歌っています。鏡王女の歌として右と隣合わせに並べて、

(3)
鏡王女の歌一首
神奈備(かむなび)の伊波瀬の社(もり)の喚子鳥(よぶこどり)いたくな鳴きそわが恋益(まさ)る(1419)


(4)
志貴皇子の御歌一首
神名火の磐瀬の社のほととぎす毛無(ならし)の岳(おか)にいつか来鳴かむ(1466)


 右の四首は志貴皇子青春の歌であり、その側に鏡王女の姿が見えるのです。磐瀬の杜は古地図に見え、博多から西へ古代国道ぞいにあり、側に額田の地名もあります。

(5)
志貴皇子の御作歌
葦辺ゆく鴨の羽がひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ(64)


(6)

志貴皇子の御歌一首
鼯鼠(むささび)は木未(こぬれ)求むとあしひきの山の猟夫(さつを)にあひにけるかも(267)

 この(5)と(6)は大和へ行った彼女を思い、木末を求めて行った彼女を案じているのではないでしょうか。

 また、別に『万葉集』の鏡王女の歌の側に天皇の文字が見えて(注:91・92番の題詞のこと)、しかしその天皇の名前まではわかりませんでした。九州の天皇であろうとは思っていたのです。ところが志貴皇子の歌を追っているうちに不思議と裏側に鏡王女の姿がありました。思いがけないことでした。そしてその天皇が志貴天皇であったと気付いたのです。

 愛し合った二人でした。しかし時は、国家滅亡の嵐が怒涛のごとく狂っていたのです。身分高きが故に、そして余りにも美しかったが故に、離ればなれとなり再び相会うこともなかった結末でした。

 天皇は、国家もまた青春も総てを失って、筑紫春日三笠山の中腹、高円の奥津城に眠られたのです。『万葉集』230、「霊亀元年(西暦715年)9月、志貴親王の薨りましし時、作れる歌」とあり、志貴親王の死亡記事でした。

靈龜元年歳次乙卯の秋九月、志貴親王の薨りましし時の歌一首〈并に短歌〉
梓弓 手に取り持ちて 大夫(ますらを)の 得物矢(さつや)手(た)ばさみ 立ち向ふ 高圓(たかまと)山に 春野焼く 野火と見るまで もゆる火を いかにと問へば 玉桙(たまほこ)の 道來る人の 泣く涙 霈霖(ひさめ)に降りて 白栲(しろたえ)の 衣ひづちて 立ち留り 吾に語らく 何しかも もとな唁(とぶら)ふ 聞けば 哭(ね)のみし泣かゆ 語れば 心ぞ痛き 天皇の 神の御子の いでましの 手火(たび)の光ぞ ここだ照りたる

高圓の野邊の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人無しに(231)
三笠山野邊行く道はこきだくも繁(しじ)に荒れたるか久にあらなくに(232)

〈右の歌は、笠朝臣金村の歌集に出づ。〉

〈ある本の歌に曰く〉
高圓の野邊の秋萩な散りそね君が形見に見つつ偲はむ(233)
三笠山野邊ゆ行く道こきだくも荒れにけるかも久にあらなくに(234)


 以上は志貴天皇の死を悼むものです。この高円とは筑紫の三笠山へ登る中腹の円形に近い台地をいうものではないのでしょうか。ここが志貴親王の奥津城であることを知りました。後に「春日宮天皇」と諡号されたのはこの方ではないかと思われるのです。朝廷の官人達はこの高円山へ集い天皇への哀惜と共に瓦解する国家への限りない惜別の涙を捧げたのでありましょう。その時の歌五首を掲げます。これは『万葉集』最後を飾り、締め括ったものでもありました。

興に依りて各々高圓の離宮處(とつみやどころ)を思いて作る歌五首

高圓の野の上の宮は荒れにけり立たしし君の御代遠そけば(4506)
〈右の一首は、右中辨大伴宿禰家持のなり〉

高圓の尾の上の宮は荒れぬとも立たしし君の御名忘れめや(4507)
〈右の一首は、治部少輔大原今城真人のなり

高圓の野べはふ葛の末ついに千代に忘れむわが大君かも(4508)
〈右の一首は、主人中臣清麿朝臣のなり〉

はふ葛の絶えず偲はむ大君の見(め)しし野邊 には標(しめ)結ふべしも(4509) 〈右の一首は、右中辨大伴宿禰家持のなり〉

大君の繼ぎて見(め)すらし高圓の野邊見るごとに哭(ね)のみし泣かゆ(4510) 〈右の一首は、大蔵大輔甘南備伊香真人のなり〉


ところが国書『続日本紀』にも不思議なことに、志貴皇子の死亡記事があるのです。

716(霊亀2)年8月11日
二品志貴親王薨しぬ。従四位下六人部王、正五位下県犬養宿禰筑紫を遣わして、喪事を監(み)護らしむ。親王は天智天皇第七の皇子なり。宝亀元年(770年)。追尊して、御春日宮天皇と称す。


 七番目だけが何故天皇と尊号を付けられたのでしょうか。死んで50年も経ってからです。天智天皇の子息で天皇になったのは大友皇子ただ一人のはずですが、これはどういうことでしょうか。私には九州倭国の歴史からの盗用記録のように思えるのです。

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