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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(40)

「天智紀」(28)


鎌足と鏡王女(8):鎌足の出生地(2)の補足


 前回の記事について、2点追記したい。

 昨日の記事で、487番に出てくる三つの地名(淡海路・鳥籠の山・不知哉川)の比定について書いた。このうち「鳥籠の山」を岩波大系は「滋賀県彦根市の正法寺山」に比定していた。アップロードした直後、これについて決定的なことを思い出した。「鳥籠の山」という一風変わった地名にどこかでお目にかかったような気がしていた。それが「天武紀・壬申の乱」の中に出てくるのだった。

 『日本書紀』は壬申の乱の戦いが、近江・大和吉野・美濃を結ぶ三角地帯で行われたように書いている。しかし壬申の乱はこんな小さな戦いではなく、吉備・太宰府を結ぶ山陽道が主戦場となった「大乱」であったことを古田さんが著書『壬申大乱』で克明に論証している。(「《「真説・古代史」拾遺編》:壬申の乱」で紹介済み)

 さて、『日本書紀』の記述に次のくだりがある。

672(天武元)年7月9日
 男依(おより)等、近江の将秦友足(はたのともたり)を鳥籠山に討ちて斬りつ。
 是の日に、東道将軍紀臣阿閉麻呂(あへまろ)等、倭京の将軍大伴連吹負(ひけひ)近江のために敗られしことを聞きて、軍を分(くば)りて、置始連菟(おきそめのぬらじうさぎ)を遣して、千余騎を率て、急に倭京に馳せしむ。


 「定説」は「倭京」を「やまとのみやこ」と訓じているが、これは「ちくしのみやこ」と読むべきことは再三ふれてきた。つまり上の戦いは筑紫で行われている。とすれば、「鳥籠山」が近江であるはずがない。『日本書紀』の頭注は、『万葉集』の頭注と異なり、「滋賀県坂田郡・犬上郡堺付近の丘陵地帯か」と書いている。「定説」では壬申の乱の激戦地として関ヶ原や不破の関を想定しているので、そのあたりに比定したいらしい。それ以上には確たる根拠はないようだ。ということで487番歌も九州で詠まれた歌である可能性がますます高くなった。

 2点目は「淡海の海」について。
 「淡海の海」が琵琶湖ではないことを示す決定的な証拠の一つは『万葉集』153番歌であった。(詳しくは 「地名奪還大作戦(9):淡海の海=博多湾内?(1)」 をご覧下さい。)

太后(おほきさき)の御歌一首
鯨魚取り 近江の海を 沖放けて 漕ぎ来る船 辺付きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の 夫の 思ふ鳥立つ


 「琵琶湖では鯨は捕れない」というのがその理由であった。では「淡海の海」はどこか。4通りの仮説が出されているが、まだどれにも決定打がない。私は「博多湾」説を支持していたが、少し修正しようと思う。何故かというと、博多湾で鯨が捕れた時代があったのか、ふと疑問に思ったのだ。そして、「鯨」で神武歌謡の一つを思い出したのだった。


字陀の 高城(たかき)に 鴫罠(しぎなわ)張る
我が待つや 鴫は障(さや)らず
いすくはし くぢら障る
前妻(こなみ)が 肴(な)乞はさば
立柧稜(たちそば)の 身(み)の無けくを こきしひゑね
後妻(うはなり)が 肴乞はさば
柃(いちさかき)身の多けくを こきだひゑね
 ええしやごしや こはいのごふぞ
 ああ しやごしや こは嘲咲(あざわら)ふぞ。


 この歌の舞台を、古田さんは筑前国志摩郡と比定している。(詳しくは 「『神武東侵』:兄宇迦斯を虐殺する。」 をご覧下さい。)

 以上から、「淡海の海」とは筑前国志摩郡(糸島半島)付近の海(博多湾内ではなく、どちらかというと外海の方)ではないか、と思いを改めたのだった。
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