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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(38)

「天智紀」(26)


鎌足と鏡王女(6):鎌足の出生地(2)


 「藤氏家伝」の上巻(大織冠伝)の著述者は藤原仲麻呂(後に恵美押勝 706年~764年)であり、760年に完成されたと言われている。『続日本紀』から「大倭」という表記が消えた年(757年)以後の成立ということになる。

 仲麻呂は不比等の子、つまり鎌足の孫に当たる。764年に権力闘争に敗れて斬首されたが、760年には太政大臣に相当する太師という職を得ている。朝廷権力の第一実力者であり、朝廷が実施する諸政策に深く関わっていた。正史で「大倭」という表記を使わなくなったことも十分承知のはずである。「藤氏家伝」でそれをあえて使用しているのは何故か。

 「大織冠伝」は大和朝廷を牛耳る藤原家の正当性を主張するとともに、家系の由緒を称揚する意図をもってつづられたであろう。正当性の一環として自家の出自をヤマト王権内の地に置くとともに、もともとは九州王朝の栄えある家系であったことも家伝として、少なくとも鎌足の孫の代頃までは伝えられていただろう。このような観点から鎌足の出生地をさぐってみよう。

大倭国高市郡の人なり。……藤原の第に生まれき。

まず新庄さんの説を検討してみる。

(九州に)高市郡を探しましたが、よそ者の私には見当も付きかねたのですが、最近『万葉集』を繰っていたとき見つけたのです。

 ……高市崗本宮、後崗本宮、二代二帝、各異れり。但、崗本天皇といへるは、いまだ その指すところを審かにせず(四八七)

と万葉編者は断っています。この崗の文字は須玖崗本の崗、有名な古代遺跡、鎌足の出身地はこの辺りかと納得することに致しました。「藤原」は鎌足が晩年に天智から貰った名前ということでしたが、これも最初から付いていた地名であったということでしょうか。

 新庄さんが取り上げている万葉集485~487番は次の通りである。

崗本天皇の御製一首〈并に短歌〉

神代より 生れ繼ぎ來れば 人多(さは)に 國には滿ちて あぢ群(むら)の 去來(かよひ)は行けど 我が戀ふる 君にしあらねば 晝は 日の暮るるまで 夜(よる)は 夜(よ)の明くる極み 思ひつつ 眠(い)も寢(ね)かてにと 明(あか)かしつらくも 長きこの夜を

山の端にあぢ群騒き行くなれどわれはさぶしゑ君にしあらねば
淡海路の鳥籠(とこ)の山なる不知哉川(いさやかは)日(け)のころごろは戀ひつつもあらむ

〈右は、今案(かむが)ふるに、高市崗本宮、後崗本宮、二代二帝、各々異なり。但し崗本天皇といふは、未だその指すところを審かにせず。〉


 ここで新庄さんが問題にしていることを、足りない部分を補充して解説しておく。

 ヤマト王権で飛鳥の岡本に宮居を構えた大王は二人いる舒明と斉明である。『万葉集』では舒明の時代を「高市岡本宮御宇天皇代」、斉明の時代を「後岡本宮御宇天皇代」と呼んでいる。上の歌以外では全て「岡」の字が使われている。『日本書紀』・『続日本紀』でも「崗」の字は全く使われていない。このことから新庄さんは上の歌の「崗本天皇」は舒明や斉明とは別人と考えた。そして「崗」のという字面から「須玖崗本」を連想したというわけだ。この推論は果たして妥当だろうか。

 上の左注はとてもわかりにくい文章だ。岩波大系はこの左注について次のような頭注を付けている。

「左注にある通り、舒明、斉明両帝いずれかであるかについて問題があり、近年は歌中の「君」により、斉明天皇とされているが、伝誦的作歌として舒明天皇を擬する考えもある。」

 左注の意味を「舒明か斉明か決定できない」という意と考えている。果たしてそういう意味だろうか。私は字句通り読んで
「高市岡本宮(御宇天皇)・後岡本宮(御宇天皇)と呼んでいる両帝とは呼び方が異なっている。崗本天皇と呼ぶ人は特定できない。」
と言っていると思う。つまり舒明・斉明を指すとしたら「高市岡本天皇」・「後岡本天皇」という表記になるはずだと言っている。編纂者はここでは高市岡本宮にも後岡本宮にも「崗」の字を用いているが、意識しているのは舒明と斉明であることは明らかだろう。従って「高市崗本天皇」を九州王朝の天皇とする新庄さんの説を私はとらない。しかし「崗本天皇」は九州王朝の天皇であり、須玖崗本と関係づける点には賛成したい。実は「崗本天皇の御製一首」という題詞を持つ歌(1511番)がもう一つある。

崗本天皇の御製一首

夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かずい寢(ね)にけらしも


 ただし岩波大系は原文では「崗」なのに、読み下し文では「岡」と原文改定をしている。そして「普通は舒明天皇と解されているが、斉明天皇の可能性もある」という頭注を付して、485番の頭注と整合させている。さらに「小倉の山」について奇っ怪な頭注を書いている。

「奈良県桜井市の山であろうが、忍坂山、倉橋山、多武峰の端山など諸説があり確定しない。」

 なぜ「奇っ怪な頭注」と言っているか分かりますよね。だって福岡に「小倉」という地名があることは中学生だって知っているだろうから。(もう一つ「小倉百人一首」の小倉が京都にある。)従来の学者たちは端から大和の歌と決めてかかり、九州を度外視しているのであのような奇っ怪な注が生まれる。ちなみに1511番と同じ歌(1664番)がある。そこでは雄略天皇の歌とされている。歌の方が一次資料、詞書より歌の中身を取れという『万葉集』の史料批判が妥当である一例である。1511番歌は九州で詠まれた歌である。

 487番には地名が三つもある。岩波大系の頭注は
①淡海路…近江の道
②鳥籠の山…滋賀県彦根市の正法寺山
③不知哉川…大堀川のこと
としている。②・③が根拠のある正しい比定だとすると近江の歌と断定しなければならないが、根拠を何も示していない。もし何の根拠もない比定ならば、②・③の山や川はどこの山・川でもよいことになってしまう。その場合、①は、「淡海の海」が博多湾内の可能性があったように(「地名奪還大作戦:淡海の海=博多湾内?」を参照してください)、博多湾に至る道ということのなる。①・②・③が正しい比定ならば、「崗本天皇は九州王朝の天子」という仮説も成り立たない。

 崗本天皇が九州王朝の天子である可能性が出て来たが、九州王朝の天子を「~天皇」と呼称することがあったのだろうか。古賀さんの論文『「両京制」の成立』から引用する。

 第四、しかもこの「筑後国交替実録帳」(仁治二年、一二四一)には、ただ「正倉院」だけが記されているのではない。「正院」があり、さらに「宮城大垣」がある。それらのワン・セットの中の「正倉院」なのだ。

 第五、その上、右の「正院」と「正倉院」は「崇道天皇」の造営にかかるもの、と記せられている。この名は、通例「早良親王」(七四九~七八五ごろ)の追号として知られているけれど、同名異人だ。なぜならこの親王は「京都~淡路島(未到にして没)~奈良(僧田・社を移置)」の間に足跡が限られ、九州とはかかわりがない。「九州の崇道天皇」とは、すなわち「九州王朝の天子」だ。そして仏道の尊崇者である。(筑前・筑後の「九躰の皇子」を「~天皇」と称する。また朝倉に「天皇の杜」あり。)

 これまでの議論をまとめると、「崗本」(現在は「春日市岡本」と表記)という地名が九州にあり、「崗本天皇」は九州王朝の天子である可能性がある。しかし春日市岡本には「高市」という地名はない。従って岡本を鎌足の出生地とする根拠はない。一方、大和に「高市郡」はあるが、藤原という地名はない。「藤原京が造られたあたりだろう」と推測している論者もいるが、これは単なるこじつけにすぎない。ずいぶん遠回りをして、振り出しに戻った。

 では鎌足の出生地を比定することはあきらめなければならないのだろうか。いやいや、この問題の解決は思いがけず実に簡単だった。

 はなから九州を度外視してる従来の論者は「大和には藤原という地名はない」ということでそれ以上の探索をしようとしない。新庄さんも「大和には」でなく「どこにも藤原という地名はない」と誤解していたのだろうか、高市だけを追っていて九州に藤原を探そうとしなかった。けったいなことに、私の知る限り九州の藤原を調べようとした人はいないようだ。

 「藤氏家伝」は「(鎌足は)大倭国高市郡の人なり」と書いている。「藤氏家伝」が完成した頃、「大倭」は使われなくなっていたはずだが、仲麻呂はこの表記を用いた。もちろんこの文脈では大和を指している。ところで「彼は東京の人だ」と言った場合、聞いた人はどうとらえるだろうか。普通は「東京生まれ」あるいは「東京の出身だ」と考えるだろうが、文脈によっては「東京に拠点を持つ人」あるいは「東京で暮らしている人」という意味にもなるだろう。「藤氏家伝」では大倭国高市郡の人なり。……藤原の第に生まれき。」となっているのだから、あくまでも出生地は藤原だ。仲麻呂は使われなくなった「大倭」を使って、「大和」と本来の意味の九州王朝の「倭国」と、二重の意味に用いているのではないか。つまり「大倭国藤原」と言っているのではないか。「大和国高市郡」で大和朝廷を牛耳る藤原家の正当性を主張している。そして「大倭国藤原」で由緒ある家系を称揚している。もしそうなら九州に「藤原」を探せばよい。このようなちょっと穿ちすぎの推論に半信半疑でネット検索をして驚いた。7件もヒットした。

①佐賀県佐賀市三瀬村藤原
②大分県中津市山国町槻木藤原
③福岡県北九州市八幡西区藤原
④長崎県大村市中里町藤原
⑤長崎県佐世保市藤原町
⑥長崎県大村市溝陸町藤原
⑦大分県速見郡日出町藤原

 ①と③が候補地だ。那珂川に一番近い地とれば①ということになる佐賀市三瀬村藤原はは背振山の麓で、吉武高木遺跡のある早良と吉野ヶ里のちょうど真ん中あたりの地である。鎌足の出生地の候補としてふさわしいと思う。「藤原」という姓は天智からもらった事になっているが、もともとは鎌足の出生地名に由来しているのだろう。
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