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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(37)

「天智紀」(25)


鎌足と鏡王女(5):鎌足の出生地(1)


 今回は、またまた更新が滞ってしまったことの言い訳から。

 進行中のテーマ「鎌足と鏡王女」は新庄さんの『謡曲のなかの九州王朝』を参考に書いている。しかし今ちょっと行き詰まっている。というのは、新庄さんの着想(仮説)は面白いのだが、論理が飛躍していてほとんど論証らしい論証がない。私にはそのまま受け入れることはできない。新庄さんの提出している仮説を私なりに論証できた場合だけ、その仮説を採用している。いや、私の素人論証も穴だらけかも知れないから、「自分なりに納得できた場合だけ」と言い直そう。論証抜きの仮説を積み上げていった理論は、ヤマト王権一元主義者たちの学問とは言えない学問と同じ「バベルの塔」と化してしまう。

 ということで、三つほどの問題で行き詰まっていていた。それらの問題で考えてきたことを、相変わらず「自分なりに納得できた」というレベルにとどまっているが、記録することにした。そして、方向性が間違っていなければ、少しずつ補充していこうと思う。なにか参考になる示唆を頂ければさいわいです。

 さて、中臣氏の根拠地については、前回、福岡の那珂川あたりではないかという吉本さんの示唆を紹介した。これが正しいとすると、鎌足の出生地も那珂川の近辺に特定できるのではないかと考えていた。

 鎌足の出生地について、「藤氏家伝」は次のように書いている。


内大臣、謹(いみな)は鎌足、字は仲郎、大倭国高市郡の人なり。其の先、天児屋根命より出づ。天地の祭を掌り、人神の間を相ひ和せり。仍(より)て、其の氏に命(おほ)せて大中臣と曰ふ。美気祜(みけこ)卿の長子なり。母を大伴夫人と曰ふ。大臣、豊御炊(とよみけかしき)天皇卅四年歳次甲戌(かふしゆつ)を以て、藤原の第(てい)に生まれき。


 この記事について、新庄さんは次のように述べている。

 鎌足は今まで鹿島・香取あるいは大和とその出身を言われてきたのは、それらには結局その痕跡のないことに因するのではないでしょうか。やはり私は天児屋根命以来、天孫降臨の始めより中富親王-中富家として、連綿とした由緒ある九州倭国天皇家輔弼の臣として続いてきた家柄ではないかと思うのです。

 『大織冠伝』に拠れば鎌足は「大倭の国、高市郡藤原の第に生まる」とある由。ちゃんとこれほど歴然と「タイワ」の国といっているではありませんか。九州の大倭以外、何処に大倭があるのでしょうか。

古田史学に長年親しませて頂いた私には大倭と大和をまるで混同しておられる今の(昔も)歴史学会の理解の程が不思議です。大多数の歴史の高名な先生方にこの縺れたところから見直して欲しいと思うこと切なるものがあります。

 「籐氏家伝」の「大倭」をこんなにあっさりと「九州の大倭」と断定してしまってよいのだろうか。そこで改めて『日本書紀』と『続日本紀』の「大倭」の使われ方を調べてみた。

 『日本書紀』は倭国隠しのため、まず国生み神話の2番目の国名を書き換えた。
豐秋津嶋→大日本豊秋津洲
 そして分注で「〈日本。此をば耶麻騰(やまと)云ふ。下皆此に效(なら)へ。」と読み方まで指示している。続いて天皇の倭風諡号は全て「倭」を「日本」で置き換えている。しかし、「倭」がなくなったわけではない。「倭」と「大倭」と「日本」が混在していて、全て「やまと」と訓読している。ところが例外が一つだけある。(全てを調べたわけではないので、他にもあるかも知れない。) このことでちょと寄り道。

645(大化元)年8月8日条
 使を大寺に遣して、僧尼を喚(めし)し聚(つど)へて詔して曰はく、「磯城嶋宮御宇天皇の十三年の中に、百済の明王、佛法を我大倭(みかど)に傳へ奉る。……」


 磯城嶋宮御宇天皇というのは欽明のことで、「 」内の文はあの仏教伝来の記事のことである。「大倭」が「ちくし(倭国)」のことなら何ら問題のない文だけど、「大倭」が「やまと(奈良)」では不都合なんですね。朝廷を差し置いて大和国に仏教が伝来してきたことになる。辻褄が合うようにここだけ別の訓読をしなければならない。でも「みかど」なんて訓読は無茶だなあ、と思って改めて仏教伝来記事を読んでみた。わかりました。ヤマト一元主義学者たちのつじつま合わせの苦労のほどが忍ばれます。仏教伝来記事(欽明13年10月条)の聖明王からの国書の最後は次のようになっている。

帝國に傳へ奉りて、畿内(うちつくに)に流通(あまねは)さむ。佛の、我が法は東に流(つたは)らむ、と記へるを果たすなり。

 「帝國」は文字通り「天子の國」であり、「貴国」という意味合いであろう。岩波大系ではこれをただ単に「みかど」と訓じている。この「帝國(みかど)」に合わせて、大化元年8月8日条の「大倭」を「みかど」と訓じたわけだった。

 本道に戻る。

 『続日本紀』では「日本」は、天皇の倭風諡号で使われている他は、ハッキリと「日本国」と国名として使われている。そして奈良を指す表記は「大和」と「大倭」が併用されている。しかし「大倭」の方は途中で消える。それまでには次のような経緯がある。

737(天平9)年12月27日
大倭国を改めて、大養徳国と為す。


 「大倭」を「やまと」とすることに忸怩たる思いがあったのだろうか。しかしまあ、「大いに徳を養う」国で「やまと」と読ませるとは恐れ入りました。でもこれは不人気で定着しなかったようだ。747(天平19)年2月22日条には「大倭」が使われている。そしてその次の月に次の記事がある。

747(天平19)年3月16日
大養徳国を改めて。旧に依り大倭国と為す。


 しかし、地名としての「大倭」は752(天平勝宝4)年11月3日の記事「従四位上藤原朝臣永手を以て大倭守と為す」を最後にぱたりと終わる。人名中に使われている「大倭」の終りは757(天平宝字元)年6月16日の記事の「正五位上大倭宿禰小東人」である。この人は翌年の記事では「穂積朝臣小東人」となっている。

 この突然の「大倭」の消滅は何なのだろうか。「大倭」という表記から「倭国(九州王朝)」を思い出すような者はいなくなったと判断し、「大倭」を「やまと」と読む無理な訓読を解消すべく、「大倭」の使用を禁じたのだろうか。『続日本紀』には該当する記事がないが、私にはそのように思われる。

 新庄さんは従来の学者たちが「大倭と大和をまるで混同しておられる」ことを非難しているが、彼らは「混同している」のではなく、『日本書紀』や『続日本紀』の「倭国隠し」という思惑通り「大倭=大和」と信じ込まされてしまったのだ。
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