2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
鎌足と鏡王女(3):鎌足の身分

 前回挙げた歌のほかに、『万葉集』に詞書にだけ鎌足が出てくる歌(16番)がある。いまは歌の方は必要ないのだが、併せて掲載する。額田王女の才媛ぶりいかんなく発揮されている歌だと思う。

近江の大津の宮に天の下しろしめしし天皇の代
 天皇の内大臣藤原朝臣に詔して、春山の萬花(ばんくわ)の艶(いほひ)と秋山の千葉(せんえふ)の彩(いろどり)とを競憐(きほ)はしめたまふ時、額田王、歌を以て判(ことわ)る歌

冬こもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉(もみち)をば 取りてそ偲(しの)ふ 青きをば 置きてそ歎く そこし恨めし 秋山吾われは


 ここで問題にしたいのは「朝臣(あそみ)」という称号である。ヤマト王権で「朝臣」という姓(かばね)が設置されたのは天武の時である。

684(天武13)年10月1日
 詔して曰く、「更(また)諸氏の族姓(かばね)を改めて、八色(やくさ)の姓を作くりて、天下の萬(よろずの)姓を混(まろか)す。一つに曰はく、真人(まひと)。二つに曰はく、朝臣(あそみ)。三つに曰はく、宿禰。四つに曰はく、忌寸。五つに曰はく、道師。六つに曰はく、臣。七つに曰はく、連。八つに曰はく、稲置。


 当然『日本書紀』には、これ以前に「朝臣」という称号をもつ人物はいない。ところが『万葉集』では鎌足が「藤原朝臣」と呼ばれている。似た例がもう一つある。柿本人麻呂だ。持統時代に活躍した天才歌人・柿本人麿は『万葉集』では一貫して「柿本朝臣人麿」と呼ばれている。しかし『日本書紀』には全く名が出てこない。だからもちろん「朝臣」を授与されたという記事はない。

 上の矛盾は、「朝臣」という称号はもともと九州王朝で使われていて、鎌足も人麿も九州王朝の高級官吏だったとと考えるとすっきり解決する。後に詳しく取り上げることになるが、天武も九州王朝の王族だったと思われる。「八色の姓」は九州王朝で使われていたものをそのまま流用したものだろう。天武の倭風諡号は天淳中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)という。天武は九州王朝において「真人」の称号を与えられていたのではないだろうか。

 鎌足が「朝臣」という高官だったとすれば、中臣鎌子連の「連」を姓の「むらじ」と読むのも矛盾といわなければならない。第2位の称号「朝臣」と第6位の「連」では違いすぎる。前々回、中臣鎌子連の「連」は「つら」ではないかと書いたが、ますますその可能性が高まったと思う。

 鎌足は何事か密命を帯びて九州王朝からヤマトやって来たと思われる。そのとき鎌足はすでに朝臣という高官であった。鎌足の身分が「連」程度ではなかった証左が『日本書紀』の記事の中にある。前回資料を列挙したときにあまり長い記事なので掲載を見合わしたが、644(皇極3)年正月条である。その中から必要な部分だけを掲載していこう。

 鎌足はまず軽の皇子に接触する。

 三年の春正月の乙亥(きのとのゐ)の朔( ついたちのひ)に、中臣鎌子連を以て神祇伯に拝(め)す。再三に固辭(いな)びて就(つかへまつ)らず。疾(やまひ)を稱(もう)して退(まかりい)でて三嶋に居(はべ)り。
 時に、軽皇子、患脚(あしのやまい)して朝(まつりつか)へず。中臣鎌子連、曾(いむさき)より軽皇子に善(うるは)し。故(かれ)彼(そ)の宮に詣でて、侍宿(とのゐにはべ)らむとす。軽皇子、深(ふか)く中臣鎌子連の意氣(こころばへ)の高く逸(すぐ)れて容止(かたち)犯(な)れ難きことを識りて、乃ち寵妃阿倍氏を使ひたまひて、別殿を浄め掃(はら)へて、新しき蓐(ねどこ)を高く鋪(し)きて、具に給(つ)かずといふこと靡(な)からしめたまふ。敬(ゐや)び重(あが)めたまふこと特に異(け)なり。


 後に王位(孝徳)を継ぐほどのヤマト王権内の有力者・軽皇子が、初対面の鎌足に、身の回りを世話する者、いわば現地妻として自分の寵姫を与えている。重要な客人に自分の妻を一夜妻として提供する風習は中世頃まであったようだ。

 次に鎌足が接近を試みたのは中大兄であった。

 偶(たまたま)中大兄の法興寺の槻の樹の下に打毱(まりく)うるる侶(ともがら)に預(くはは)りて、皮鞋(みくつ)の毱の隨(まま)脱け落つるを候(まも)りて、掌中(たなうら)に取り置(も)ちて、前(すす)みて扼(ひざまづ)きて恭(つつし)みて奉る。中大兄、對(むか)ひ脆きて敬(ゐや)びて執りたまふ。並(これ)より、相(むつ)び善(よ)みして、倶に懐ふ所を述ぶ。

 中大兄もヤマト王権の有力な皇子である。身分の低い者とは蹴鞠はできまい。この蹴鞠は鎌足を歓待する催しではなかったか。中大兄と鎌足以外の参加者が記録されていないが、ヤマト王権の有力者たちが多数参加していたと思われる。
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