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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(34)

「天智紀」(22)


鎌足と鏡王女(2)


 本論に入る前に資料をまとめておこう。

 藤氏家伝上(「大織冠伝」)によると「鎌足」は「謹(いみな)」である。『日本書紀』には「鎌足」という名は出てこない。しかし『日本書紀』での鎌足の呼称は次々と変わる。『日本書紀』の記事を年表風に追ってみよう。

 中臣鎌子連という名称で初登場したのは644(皇極3)年正月条であった。

644(皇極3)年正月
 中大兄皇子との出会い記事

645(皇極4)年6月8日・13日
 蘇我親子(蝦夷・入鹿)の謀殺記事

645(皇極4)年6月14日
 孝徳(軽皇子)即位。
 中大兄は皇太子に。
 阿倍内麻呂を左大臣にし、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣にするとともに、中臣鎌子連に冠位・大錦を授けて内臣に任じている。

 「内臣」を「うちつおみ」と訓じている。この官位を持つ人物は鎌足以外にはいない。ただし、「内臣」という言葉が使われている例が『続日本紀』(養老5年10月24日条 藤原房前への詔)に一例ある。

「およそ家の中に久しく癒らない病気があるときは、何かと平安でなく、不意に悪い出来ごとが起こるものである。汝房前はまさに内臣となって、内外に捗ってよく計り考え、勅に従って施行し、天皇の仕事を助けて、永く国家を安寧にするように。」

 こここでの「内臣」は官位名ではない。「股肱の臣」あるいは「帷幄の臣」という意味合いの普通名詞として使われている。鎌足を「内臣」としたのも「股肱の臣」という意味合いを込めての授与だろう。しかし、鎌足は孝徳に忠誠を誓っているわけではなく、天智の「股肱の臣」である。

 このあと鎌足が登場するのは19年後の664(天智3)年条である。一回目の郭務悰来訪時の接待役として登場する。「中臣鎌子連」という名は使われず、「中臣内臣」という呼称で現れる。

664(天智3)年10月1日
 郭務悰等を發(た)て遣す勅を宜たまふ。是の日に、中臣内臣、沙門智祥を遣して、物を郭務悰に賜ふ。

668(天智7)年5月5日
 天皇蒲生野に縦猟(かり)したまふ。時に大皇弟・諸王・内臣及び群臣、皆悉に従なり。

668年(天智7)年9月26日
中臣内臣、沙門法弁・秦筆を使して、新羅の上臣大角干庾信に船一隻賜ひて、東厳等に付く。


 ちょっと横道へ。
 額田王女と大海人皇子との贈答歌として人口に膾炙しているあの歌は「蒲生野に縦猟」の時の作歌とされている。

天皇の蒲生野に遊猟したまへる時、額田王のよみたまへる歌
茜さす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる
皇太子の答へたまへる御歌
紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾(あれ)恋ひめやも

 本道に戻る。
 「中臣内臣」という呼称はここまでで、次はいきなり「藤原内大臣」と呼称に替わる。

669(天智8)年5月5日
 天皇、山科野に縦猟したまふ。大皇弟・藤原内大臣及び群臣、皆悉に従なり。


 鎌足が藤原姓をもらうのはまだ後のことだ。岩波大系も「ここではまだ中臣内臣と記すべきところ」と注している。あっちこっちからの切り貼りをしているためか、『日本書紀』の編纂者たちは相当混乱して、不都合な記載を処々に残している。

669(天智8)年
 是の秋に、藤原内大臣家に霹(かむとけ)せり。

669(天智8)年10月10日
 天皇、藤原内大臣の家に幸して、親(みづか)ら所患(やまひ)を問ひたまふ。而るに憂へ悴(かじ)けたること極めて甚し。乃ち詔して曰はく、……

669(天智8)年10月15日
 天皇、東宮大皇弟(ひつぎのみこ)を藤原内大臣の家に遣して、大織冠と大臣の位とを授く。仍りて姓を賜ひて、藤原氏とす。此より以後、通して藤原内大臣と曰ふ。

669(天智8)年10月16日
 藤原内大臣薨せぬ。


 鏡王女についての記事は、『日本書紀』では次の2条だけである。

683(天武12)年7月4日
 天皇、鏡姫王(かがみのおほきみ)の家に幸して、病を訊ひたまふ。

683(天武12)年7月5日
 鏡姫王薨せぬ。


 関連記事として、次の記事がある。

673(天武2)年2月27日
 天皇、初め鏡王の女(むすめ)額田姫王を娶して、十市皇女生しませり。


 この記事から、「鏡王女と額田王女は姉妹」という説がある。鏡王については「系譜未詳」とある。おいおい明らかになるだろうが、私(たち)の立場からは、鏡王も鏡王女も額田王女も九州王朝ゆかりの人物である。

 ところで、『万葉集』には額田王女の歌が13首残されている。鏡王女の歌は5首ある。鏡王女の歌は後に取り上げることになると思うので、鎌足の歌と併せて、一応全首掲載しておく。

近江大津宮に天の下知らしめしし天皇の代〈天命開別天皇、諡して天智天皇といふ〉

天皇(天智)、鏡女王に賜ふ御歌一首
(91)
妹が家も繼ぎて見ましを大和なる大島の嶺(ね)に家もあらましを
鏡女王、和(こた)へ奉る御歌一首
(92)
秋山の樹(こ)の下隠(かく)り行く水のわれこそ益(ま)さめ御思(みおもひ)よりは

内大臣藤原の卿、鏡女王を娉(よば)ふ時、鏡女王の内大臣に贈る歌一首
(93)
玉くしげ覆(おほ)ふを安み開けて行かば君が名はあれどわが名し惜しも
内大臣藤原卿、鏡王女に報へ贈る歌一首 (94)
玉くしげみむろの山のさなかづらさ寝ずはつひにありかつましじ
 〈或る本の歌に曰はく、玉くしげ三室戸山(みむろとやま)の〉

内大臣藤原卿、釆女(うねめ)安見児(やすみこ)を娶(ま)きし時作る歌一首
(95)
われはもや安見児得たり皆人の得難(がて)にすとふ安見児得たり

鏡女王の作る歌一首
(489)(1607)
風をだに戀ふるは羨(とも)し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ

鏡女王の歌一首
(1419)
神名火(かむなび)の伊波瀬(いはせ)の杜の呼子鳥いたくな鳴きそわが恋まさる

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