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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(33)

「天智紀」(21)


鎌足と鏡王女(1)


 「天智の履歴の謎」 で、天智と鎌子(鎌足)の出会いの記事(「皇極紀」3年正月条)を引いたとき、この記事が鎌子の初出記事と判断した。鎌足の生年は614(推古22)年とされているので、「推古紀」以降だけを調べた結果だった。しかし、実は似たような名が「欽明紀」552(欽明13)年10月条に出てくる。鎌足の生年より62年も前の記事である。

 552年か。なつかしいな。中学生の時、「おいちにおいちに(1212)と仏教伝来」と、仏教伝来の年を一生懸命覚えようとしたな。皇紀元年(神武即位)が紀元前660年なので「552+660=1212」というわけだった。今でも学校ではこんなウソを教えているのかなあ。ここには二重のウソがある。皇紀が真っ赤なウソ。二つ目のウソは「552年仏教伝来」。ここで「おいちにおいちに」とやっていたのは半世紀の昔のことと気づいて、念のため手元の高校生用「日本史史料集」を調べてみたら、「上宮聖徳法王帝説」「元興寺伽藍縁起」の記事を論拠にした「538年」説を併記し、「538年」説の方が「有力」と解説している。年表では「538年」を採用している。「538年」が定説となっているようだ。

 念のため言い添えておくと、一般に民間の交流から生じる文化の伝播は「国家間の外交事績」(公伝)に先んじている。「仏教伝来」というのは言うまでもなく「公伝」という意味である。

 「定説」は538年を仏教伝来の年としているが、仏教はまず九州王朝(倭国)に伝来されただろうし、その時期もさらに早いと思われる。

 仏教伝来は百済経由であった。では百済ではいつ頃仏教が伝わったのだろうか。『三国史記』・『三国遣事』によると、百済の仏教は沈流王元(384)年と記録されている。倭国と百済との関係を考えれば、倭国への仏教伝来がこれよりも150年も後とは不自然だ。今は深入りしないが、古田さんは『法隆寺の中の九州王朝』の中で、仏教伝来は「4世紀末から5世紀初頭の頃」ということを詳しく論証している。その後さらに古賀さんが『雷山縁起』(糸島郡)を論拠に「倭国への仏教伝来は418年」と割り出している。

 つい横道に入ってしまった。鎌足に戻ろう。

 「欽明紀」552(欽明13)年10月の記事はまぎれもなく「仏教伝来」記事である。そこに「中臣連鎌子」という名で出てくる。次の登場は「皇極紀」644(皇極3)年正月の記事で、「中臣鎌子連」となっている。92年も隔たる記事だから当然全くの別人だ。さすがに「定説」も「中臣連鎌子は藤原鎌足のこと」なんていう無茶なことは言わない。岩波大系の頭注は次のようである。

「当時の中臣氏の中心人物か。ただし中臣氏系図に引く延喜本系帳には鎌子の名はみえない。中臣連は天児屋根命の後と称し、古来朝廷の祭祀を掌った氏。」

 要するに「不明」ということだ。

 さて、ここでかねて気になっていた問題がある。先に私は「欽明紀」に「似たような名」があると書いた。「欽明紀」では「中臣連鎌子」であり、「皇極紀」では「中臣鎌子連」なのでそう書いた。「臣(おみ)」・「連(むらじ)」という「姓(かばね)」はフルネームで表記する時は「氏(うじ)」+「姓(かばね)」+「名」が一般のようだ。つまり「中臣連鎌子」が一般的な表記であり、「中臣鎌子連」という表記は異例である。『日本書紀』を全部調べたわけではないので断言できないが、私の知る限りでは「中臣鎌子連」というような表記はこの例しかない。

 ここで思い出したことがある。 『「倭の五王」とはだれか:真説編(8)』 で取り上げたように、良山「古系図」の中に名称が「連(つら)」で終わる世代があった。「中臣鎌子連」はこの伝統につながる名乗りではないだろうか。もしそうなら「中臣鎌子連」は「なかとみかまこつら」であり、鎌足が九州王朝にゆかりの人物であることの傍証の一つとなる。
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