2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(32)

「天智紀」(20)


「太宰府」について(6):倭京(3)


 第1期の掘立柱建物遺構の造営時期は、定説(天智の頃)とは異なり、第2期の礎石建物造営より約100年前後さかのぼることを、理化学的年代測定が指し示している。このことを文献面から論証してみよう。

 九州年号「倭京(ワキョウ)」の直前に「定居(ジョウコ)」と言う年号がある。(読みは平野雅曠さんの試案に従った。)

定居…611年~617年
倭京…618年~622年

 それぞれ、都城創建の地を定めたことを祝って年号を「定居」とし、遷都を祝って年号を「倭京」と定めたと考えられる。この年代は「第2期の礎石建物造営より約100年前後さかのぼる」ことと一致する。自ら天子を名乗ったあの「多利思北孤」の時代である。

 上の年号期間によると、創建の地を定めてから都城の完成まで7年かかったことになる。ヤマト王権最初の条坊都市・藤原京は690年に建造地が決まり、694年に遷都している。これと比べると倭京の方は年月がかかりすぎているように見えるが、倭京は山城・水城を備えた羅城なのでこのくらいの年月は必要だったろう。

 ところで、『日本書紀』での「大宰」の初出は推古17年4月の記事であった。その記事を改めて全文掲載する。

609(推古17)年4月
 筑紫大宰、奏上して言さく、「百濟の僧道欣・恵彌、首として、一十人。俗人七十五人。肥後國の葦北津に泊れり」とまうす。是の時に、難波吉士徳摩呂・船史龍を遣して、問わしめて曰はく、「何か来し」といふ。對へて曰はく、「百濟の王、命せて以て呉國に遣す。其の國に亂有りて入ることを得ず。更に本郷に返る。忽に暴き風に逢ひて、海中に漂蕩(ただよ)ふ。然るに大きなる幸有りて、聖帝の邊境に泊れり。以て歓喜ぶ」といふ。


 『「推古紀」のウソ八百(3)』 で、「推古紀の前後に12年の紀年のずれがあること」を論証した古田さんの論文を紹介したが、上の引用文中の字部分はそのときに用いられた史料の一つであった。つまりこの記事は、九州王朝の史書から盗用するときに干支を一巡間違えて記録したものだ。するとこの記事は本来は621年のものということになる。このことは621年には既に太宰府が創建されていたことを示している。これは九州年号の「倭京元年」が618年であることと見事に符合する。つまり「倭京=太宰府」であり、太宰府の創建は618年であったことを指し示している。

 以上のことを傍証する興味深い史料を、古賀達也さんが論文『「太宰府」建都年代に関する考察』で取り上げている。それを紹介して、テーマ『「太宰府」について』を締めくくろう。

 平安時代延喜年間(901~922)の成立とされる『聖徳太子伝暦』の推古25年条(617)に、聖徳太子による遷都予言記事が見える。次の通りだ。

此地帝都。近気於今。在一百餘歳。一百年竟。遷京北方。在三百年之後。  (『聖徳太子伝暦』推古二五年条)

 平城京遷都と平安京遷都の予言記事と見られるが、もちろん『日本書紀』には見られない唐突な予言記事である。当然のこととしてこのような予言が歴史事実とは考えられず、かといって『聖徳太子伝暦』編者による全くの造作とも考えにくい。何故なら推古25年条にこうした聖徳太子による遷都予言を設定する必要性などないからである。同様に鎌倉期(1318頃)に成立した『聖徳太子伝記』にも、太子46歳条(617)に近江遷都予言記事や難波遷都予言記事が見える。

 このような聖徳太子伝承において、ともに617年に遷都予言記事が配された理由として、九州王朝における上宮法皇多利思北孤による太宰府遷都の詔勅記事が、後代に於いて聖徳太子伝承に遷都予言記事として取り込まれたと考えた場合、その617年が倭京元年(618)の前年にあたり、拙論の太宰府建都を倭京元年とする仮説に対応するのである。聖徳太子の時代、大和朝廷では「遷都」がなかったので、予言記事とせざるを得なかったのではあるまいか。後代史料とは言え、『聖徳太子伝暦』などの617年の遷都予言記事は、倭京元年太宰府建都説の傍証と言えるものであり、これ以外に遷都予言記事が617年に配された史料事実を合理的に説明できないのである。

スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1465-26905032
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック