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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(31)

「天智紀」(19)


「太宰府」について(5):倭京(2)


 「倭京」=「ちくしのみやこ」は具体的にどこなのだろうか。私(たち)の常識では、それは太宰府以外ではあり得ない。

 「倭京」という名称は『日本書紀』にしか現れないのだろうか。実は九州年号の中に「倭京」(618~623)がある。これは後に改めて取り上げることにして、まずは考古学的にアプローチしてみたい。

(伊東義彰さんの論文「太宰府政庁跡遺構の概略」を教科書に追加します。)

 太宰府は藤原純友の乱(941年)で焼失した。従来は「現在見える礎石が創建時のもので、藤原純友の乱で焼亡した後は再建されなかった」というのが「定説」だった。しかし1968年から始まった発掘調査によって、大宰府の遺構は三層あることが判明した。古い方(下層)から第1期・第2期・第3期と呼ばれている。発掘にたずさわった研究者たち(福岡県教育委員会・九州歴史資料館・太宰府市教育委員会・筑紫野市教育委員会)はおおよそ次のようにまとめている。

第1期 掘立柱建物遺構
 大宰府政庁創建期であり、7世紀後半~8世紀初頭
第2期 礎石建物遺構
 朝堂院形式創建期のもので、8世紀初頭~10世紀中葉(藤原純友の乱で焼失)
 政庁規模は、東西111.6メートル、南北188.4メートル、回廊規模は、東西111.1メートル、南北113.8メートル。
第3期 礎石建物遺構
 朝堂院形式整備拡充期であり、10世紀中葉~12世紀

 第2期の再建時期を8世紀初頭としているが、もしそうならそれを伺わせる記事が『続日本紀』にあるのではないかと思い調べてみた。721(養老5)年7月25日の条の「大宰府城門災。」という記録が目にとまった。この記録では城門だけの火災だったようだし、その後に再建の記事がない。『続日本紀』は日録風のかなり詳しい記録で、大野・基肄・鞠智の3城の修繕記事(文武2年5月25日条)をも記録している。それなのに大宰府再建のような大事な記事の書き落としたとは考えられない。可能性は残るが、この時期の再建ではないようだ。

 すると第2期の遺構の再建時期として唯一考えられるのは、唐の占領軍によって破壊された第1期の遺構の上に、ヤマト王権(たぶん持統)によって建てられたものではないかという仮説である。

 「定説」は第1期の創建を7世紀後半としている。これは考古学的事実による判定ではなく、『日本書紀』に現れる「大宰」記事(「推古紀」~「持統紀)からの推定だろう。たぶん、山城や水城造築記事をからめて「天智が造らせた」と考えたのだろう。この仮説に出会うと、またまた次のことを指摘しなければならない。すなわち、ヤマト王権は、初めて造った坊条都市・藤原京にさきがけて、ヤマト王権の本拠地から遙か彼方の筑紫に山城・水城・神籠石などて防御された大掛かりな羅城を造ったことになる。学者たちはこうした矛盾に目をつぶっている。

 では第1期の太宰府はどのような都城で、その造営時期は何時だったのか。この二点を検討してみよう。

 発掘成果をもとに次のような復元図が作成されている。(Wikipediaから拝借)

太宰府復元図

  Wikipediaは「政庁第1期に対応する7世紀段階では、条坊の存在に結びつくような遺構は確認できない」と書いているが、「確認できない」のではなく、「全面的な発掘を避けている」らしい。内倉さんは次のように苦言を呈している。

 九州歴史資料館は「上の方に平安時代など新しい遺構がある場所は、それ以上掘れない。上の遺構を壊してしまうわけにはいかないので」と、"歴史隠しの意図"を否定する。
 「平安時代の遺構は、図と写真で残せばいい。元来の遺構をきちっと出すべきだ」と思うが、九州歴史資料館は「そうもいかない」とかなり頑だ。数多くの遺跡が「記録保存」されているのに、変だ。この遺跡を「特別史跡」に指定した文化庁の意向がきついらしい。

 上の「復元図」で学校院と書かれている左隣の建物が「大宰政庁」だろう。そこを地元の人は「太宰府都府楼」と呼んでいる。その二つの建物を含む広大な一角、その奥に「紫宸殿」や「大(内)裏」「大(内)裏岡」などの字地名が残っている。また条坊中央の南に延びる道は「朱雀大路」と呼ばれている。その一角は、「第1期の遺構では紫宸殿などを構えた天子の宮城だったに違いない。伊藤さんの論文を読んでみよう。

 I期の掘立柱建物遺構については、その上層にⅡ期およびⅢ期の礎石建物遺構などが良好な状況で存在するため、限られた範囲においてのみしか、その遺構の状況を把握することが出来ません。要は全面的な発掘調査が行われておらず、断片的な資料しかないということです。したがって、その構造なり性格付けといったものについては現在のところ、必ずしも明瞭な解答は得られていません。

 断片的な資料から言えることは、

 I期の遺構のおよぶ範囲が少なくとも、Ⅱ期の朝堂院的建物の範囲と広がりを有する。

 Ⅱ期のような朝登院的建物配置とは異なる。

 Ⅲ期の中門の地域において、少なくとも三回の建て替えが行われている。

 中門・回廊東北部の掘立柱建物や柵列には同一方向をもったものがあり、Ⅲ期の朝堂院的建物遺構の方向ときわめて近似している。
以上のようなことです。

 中門基壇下の掘立柱建物遺構が四面廂(ひさし)の殿舎的な建物(身舎部8.4×14.7メートル、廂部「8メートルの南北棟)であったことから、Ⅱ期のような朝登院的配置ではなかったと考えられますが、掘立柱建物や柵列に同一方向性があり、また、柵列には中軸線を意識したものもあるところから、朝登院的配置を成していなかったとしても、何らかの企画性をもって配置されたものであることは明らかであり、このような建築物が?期の朝登院的建物の範囲に広がっていたということは、掘立柱建物であったとはいえ、当時としては荘厳な威容を誇るものであったと思われます。

 掘立柱建物であるとはいえ、当時としては荘厳な威容を誇った建物群こそ、倭国の大王が居住し、倭国を統御した中心的拠点、すなわち倭国の都がおかれていた太宰府だったと考えられます。だからこそ、その周辺に大規模かつ強固な山城や水城・築堤などの羅城、神籠石などの防御施設を築く必要があったのです。

 Ⅱ期・Ⅲ期の礎石建物遺構保存の必要性から、その下に眠っている掘立柱建物遺構の発掘調査はきわめて限定的範囲でしか行われておらず(中門・回廊東北隅部・北門・正殿の前面)、その遺構や遺物からは創建時期と存続期間を示す直接的な資料は見つかっていないとされる、太宰府政庁跡Ⅰ期の掘立柱建物群はいつごろ創建され、いつごろまで存続したのでしょうか。

 Ⅰ期の掘立柱建物遺構の創建時期について明確に示す資料はほとんどありませんが、太宰府の都城の構造が百済の首都泗沘(538~660)のそれと近似していることや、水城などの理化学的調査の結果などから天智朝よりも遡ることは明らかであり、また、三回の建て替えが行われていることなどから、Ⅱ期の礎石建物が造営される約100年前後前頃に創建されたのではないでしょうか。

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