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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(30)

「天智紀」(18)


「太宰府」について(4):倭京(1)


 倭京については 「壬申の乱」 の中で取り上げたことがある。

「倭京」問題(1)
「倭京」問題(2)

 この時は古田さんの論文をごくおおまかに要約しただけでなので、いま読んでみると粗雑の感が否めない。重複する部分もあるが、自分なりの新しい観点も取り入れて再論したいと思う。

 「倭京」の初出は「孝徳紀」の653(白雉4)年の記事である。実に奇妙な記事だ。 「倭京」問題(1) では、その記事の部分掲載だったが、今回は全文掲載しよう。

① 653(白雉4)年
是の歳、太子、奏請して曰さく、「冀(ねが)はくは倭京)に遷(うつ)らむ」ともうす。天皇、許したまはず。皇太子、乃ち皇祖母尊・間人皇后を奉り、并て皇弟等を率て、往きて倭(やまと)の飛鳥河邊行宮(あすかのかはらのかりみや)に居ます。時に、公卿大夫・百官の人等、皆随ひて遷る。是に由りて、天皇、恨みて國位(くに)を捨(さ)りたまはむと欲して、宮を山碕に造らしめたまふ。乃ち歌を間人皇后に送りて曰さく、
 鉗(かなき)着け 吾が飼ふ駒は 引出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか
(かなきつけ あがかふこまは ひきでせず あがかふこまを ひとみつらむか)


 ヤマト王権では、天武までの大王は代替わりの度にその宮居も替えている。飛鳥(明日香村)に初めて宮を構えた推古からみてみよう。推古は豊浦宮で即位して、11年後に小墾田宮に遷宮している。次の舒明は即位1年後に飛鳥岡(岡本宮)に遷宮している。次の皇極も即位1年後に板蓋(いたふき)宮に遷宮している。板蓋宮の地はまだ確定されていないが、飛鳥の可能性高いと言われている。一応飛鳥としておこう。

 次の孝徳は即位の半年後に難波長柄豊碕宮に遷宮したとされている。すると上の記事では、天皇に逆らって倭京に還ってしまった皇太子の行き先は小墾田宮か岡本宮か板蓋宮のいずれかと考えるのが当然の理路だと思うが、その当然の理路が通用しない。皇太子の行き先は「倭の飛鳥河邊」という名の「行宮」だという。  「行宮」というのは行幸などの時に施設される臨時の宮居である。とても「京(みやこ)」とは言えない。また、次の667(天智6)年8月の記事では14年前の、もう朽ちたかもしれない「行宮」にいったことになり、とってもトンチンカンなことになる。

② 667(天智6)8月
 皇太子、倭京に幸(いでま)す。

 この記事もおかしな記事である。たった一行の記事で、前後との脈絡もなく、帰還記事もなく、実に唐突なのだ。

 岩波大系では上の二例には何の注もない。上に述べたような矛盾に困り果てているのではないかと同情の念が湧いてくる。

 この後「倭京」は「天武紀・上」の「壬申の乱」の記事に5回出てくる。もちろん「定説」は全て「やまとのみやこ」と訓読している。「天武紀」での「倭京」記事は次の通りである。

③ 672(天武元)年5月
 或いは人有りて奏して曰さく「近江京(あふみのみやこ)より倭京に至るまでに、處處に候(うかみ)を置けり。亦菟道(うぢ)の守橋者(はしもり)に命せて、皇太弟(まうけのきみ)の宮(みや)の舎人(とねり)の、私粮(わたくしのくらひもの)運ぶ事を遮(た)へしむ」とまうす。

 『日本書紀』は、この「近江京」を唯一の例外として、宮居は全て「~宮」と 呼んでいる。つまり近江の宮居も他の所では「近江宮」と呼んでいる。『日本書紀』の編者はここだけなぜ「京」を使ったのだろうか。「倭京」との対の表記なので、それとのバランスをとって「近江京」としたのかも知れない。しかしこれは、後世の私(たち)をまたまた混乱させる。「えっ、倭京というのは「行宮」ではなく近江宮のようなれっきとした王宮だったのか。」

④ 672(天武元)年6月
 ……(大友皇子が)穂積臣百足(ほずみのおみももたり)・弟五百枝(おとといほえ)・物部首日向(もののべのおびとひむか)を以て、倭京に遣す。

⑤⑥ 672(天武元)年7月
 是の日に、東道将軍紀臣阿閉麻呂(うみつみちのいくさのきみのおみあへまろ)等、倭京の将軍大伴連吹負の近江の為に敗られしことを聞きて、軍を分(くば)りて、置始連菟(おきそめのむらじうさぎ)を遣して、千余騎を率(ゐ)て、急(すみやかに)に倭京に馳せしむ。

⑦ 672(天武元)年9月
 (天武は)庚子(かのえねのひ 12日)に、倭京に詣(いた)りて、嶋宮(しまのみや)に御(おはしま)す。

 この後、「倭京」はパッタリと姿を消す。

 上の③の記事に対して、岩波大系は初めて頭注を付けている。

「飛鳥(奈良県高市郡明日香村)の地をさす。」

 つまり、「定説」は「倭京」は「京(みやこ)」ではなく、「飛鳥の地」の別名だと言っている。倭京がどの王宮か特定できないばかりか、どこに特定しても矛盾が起きる。ほとほと困った上での苦肉の策といったところだ。なるほど、これなら7例のどれをとっても一応矛盾はない。

 しかし新たな疑問が出てくる。「飛鳥」は神武以来ヤマト王権の根拠地であり、ヤマト王権が誇らしく特記する聖徳太子が活躍した地である。なんでわざわざ「倭京」などという曖昧な代替地名を案出する必要があるのか。そして、どうして「天武紀・下」以降では使わなくなったのか。

 以上の問題は全て、「倭」はすべて「大和」という謬見によって、「倭京」を「やまとのみやこ」と訓読したことから発する。「ちくしのみやこ」と解すれば全ての問題が解消する。

 ①のところで述べたように、ヤマト王権では大王の代替わりごとに宮居が遷されている。私はそれを「遷都」ではなく「遷宮」と書いてきた。それには理由がある。遷宮のほとんどは即位の年かその翌年に行われている。そのような短期間で条坊を備えた本格的な「京」を築くことなどできない。ヤマト王権が初めて造営した「京」は持統の「藤原京」である。
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