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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(29)

「天智紀」(17)

「太宰府」について(3):筑紫都督府

 「筑紫都督府(ととくふ)」という言葉が『日本書紀』に一回だけ出てくる。「天智紀」の次の記事である。

667(天智6)年11月9日
 百濟の鎮将劉仁願、熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聡等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。


 この孤立した「筑紫都督府」に「定説」論者たちはほとほと困ったようだ。岩波大系は「筑紫大宰府をさす。原史料にあった修飾がそのまま残ったもの」という苦しい頭注を付けている。「原史料」については何の説明もない。見たこともない「原史料」を持ち出して切り抜けようとしているようだ。太宰府を地方の一役所とみなして疑わないために起こってくる混乱である。何の資料根拠のないこのような「定説」がまかり通る「学会」って一体何だ?

 私(たち)には「筑紫都督府」という言葉に何の疑念もないし、「筑紫太宰府=筑紫都督府」は当然の結論である。文献や考古学的遺物がそのことをハッキリと示している(後ほど取り上げる)。そしてこの場合も、学者たちの困惑ぶりをよそに、民間の伝承は明快である。内倉さんは九州在住の方なので、その辺の事情に明るい。前提書から引用しよう。

 大野城市を抜けて太宰府市に入るところで、東から三部山地、西から脊振山地が張り出し、平野がぐっと狭まる。

 国の特別史跡「大宰府跡」は、袋状になった狭い平野の中心部にある。袋の奥、東側には学問の神様としてあがめられる菅原道真(845~903年)を祭る太宰府天満宮がある。現在、遺跡は広々とした芝生の地表に、礎石や石をならべて地下の遺構の様子が復元されている。

 遺跡の入り口には「大宰府政庁遺跡」と大書してあるが、地元で「セイチョウ跡」という人はほとんどいない。古くからの住民は、
「ここを大宰府政庁と呼ぶ人はいないですよ。私らは昔っから都府楼(とふろう)と言っています」
という。

 遺跡の中央付近に、一段高くなった基壇があり、石碑が三本立っている。中央の石碑には、誇らしげに「都督府古址」と彫ってある。明治年間に民間人が立てたという。

 学者が主張している「大宰府政庁」と、地元の人たちが呼び習わしている「都府楼」とはどう違うのか。そして、石碑にいう「都督府」とは何なのか。

 「都府楼」という呼名が古くから使われている例として、内倉さんは菅原道真の漢詩と取り上げている。901年、京の都から太宰府に追われた道真があばら家で蟄居している時の詩だ。(現代語訳は内倉さんによるもの。)

一従謫落(ひとたびたくらく)して柴荊(さいけい)に就(つ)きてより
萬死競々たり跼蹐(きょくせき)の情
都府楼は纔(わずか)に瓦の色を看(み)る
観音寺は只鐘聲(ただしょうせい)を聴(き)くのみ
中懐は好(よ)し孤雲を逐(お)うて去り
外物相逢うに満月迎う
此の地身に検繋(けんけい)なしと雖(いえど)も
何為(なんす)れぞ寸歩も門を出でて行かん


(現代語訳)
この度咎めを受けてあばら家に住むことになった
死なねばならぬ、の思いで身の置き所もない
木々の間から遠く見える瓦は都府楼の屋根だ
観(世)音寺には参拝もせず鐘聲だけを聴いている
心の中はすべての恩怨を断ち、すがすがしく
名誉回復を思う時、気持ちははればれする
この地では我が身に何の束縛もないが
身を謹んで寸歩たりとも門は出るまい

 貝原益軒(1630~1714)がこの詩に注釈をつけている。その注釈で「都府とは都督府のことだ」と正しく指摘している。しかし、なぜ太宰府を都督府と呼んだのかや、都督とはなんなのかについてはまったくお手上げのようで、何の説明もないという。

 さて、「都督府」とは何か。この問題の答は古田さんの解明に従おう。

 5~6世紀、朝鮮半島の諸国・倭国の各王者は、それぞれ「都督」に任ぜられている。前回の『宋書・倭国伝』からの引用文にあるように、倭国では倭王武が使持節都督に任ぜられている。倭王済も使持節都督になっている。百済王では余映(宋書百済伝)・余隆(梁書、百済伝)など使持節都督に任ぜられている。「都督府」とは「都督」の居する中心拠点のことである。

 百済の場合、7世紀後半(白村江の戦い後)に「五都督府」が設置されている(三国史記)。しかし、その中心は5~6世紀の頃と同様、最初に引用した天智6年条に見られるように依然「熊津(ゆうしん)」である。そこに百済王の都があったのだから当然のことだ。

 倭国の場合も例外ではない。倭王=都督の都するところが「都督府」であった。それが「天智紀」に現われた「筑紫都督府」だ。このことは、5世紀~7世紀まで、倭王の都があった地は筑紫にあったことを示している。従って同時にこれは、白村江の戦の時点の倭王が筑紫君・薩夜麻であったことも証している。

 ところで、7世紀の百済の「五都督府」は唐によって設置されたものだが、倭国の場合は事情が異なる。筑紫都督府は唐の占領軍によって設置されたものではない。倭国は白村江の戦に敗れるまで、一貫して南朝の行政制度を取り入れてきた。7世紀の都督府も5世紀~6世紀の行政制度をそのまま引き継いでいることになる。

 『偽装「大化の改新」(1)「郡評」論争』 で取り上げたように、倭国の行政制度は郡制度ではなく、評制度を採用していた。藤原宮跡から出土した木簡や浜松市伊場出土の木簡がそのことをはっきりと証明している。この行政区画単位である評の長官を評督と言う。評督は文献上では『続日本紀』に見ることができる。これも既に 「九州王朝関係書物は「禁書」として処分された。 」 で論じているので、簡単に再論する。

700(文武4)6月3日
薩末比売。久売。波豆。衣評督衣君県。助督衣君弖自美。又肝衝難波。従肥人等、持兵。剽劫覔国使刑部真木等。於是勅竺志惣領。准犯决罸。

(現代語訳)
 薩末(さつま)の比売(ひめ)・久売(くめ)・波豆(はつ)・衣評(えのこおり)の督(かみ)の衣君県(えにきみあがた)・同じく助督(すけ)の衣君弖自美(てじみ)、また肝衝(きもつき)の難波、これに従う肥人(くまひと)らが武器を持って、さきに朝廷から派遣された覔国使(くにまぎのつかい)の 刑部真木(おきかべのまき)らをおどして、物を奪おう とした。そこで筑紫の惣領に勅を下して、犯罪の場合と 同じように処罰させた。


 「都」には「天子の宮城のある地」の他に「すべて みな」という意味がある。都督の場合の「都」は「すべて」という意である。つまり各地方の全ての評督を束ねる中心人物を都督と呼んでいる。その都督のいる地が都督府である。筑紫以外に、大和にも近江にも「都督府」や「都府楼跡」の存在した痕跡は、文献上にも遺跡上にも全く無い。都督府は倭国の首都・太宰府以外ではあり得ない。
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