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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(28)

「天智紀」(16)


「太宰府」について(2)


(今回は内倉さんの『太宰府は日本の首都だった』と古田さんの『邪馬一国への道標』を教科書にしています。)

 『日本書紀』・『続日本紀』は一貫して「大宰」・「大宰府」と、「大」の字を用いて表記している。そして『日本書紀』は、太宰府は推古の昔からヤマト王権の支配下にあったと主張している。この近畿王朝の史書の意図を汲んで、「定説」は「大宰」を「おほきみこともち」とか「おほみこともち」とか、中央から派遣された地方行政官の長という意味の訓読をしている。私は「だいさい」と音読している。

 しかし私は太宰府は九州王朝の首都であることを知っているので、『日本書紀』などからの引用文以外では「太宰府」と「太」を用いて表記している。こちらは一般に流布されているように「だざいふ」と音読しよう。

 上に示した表記の違いは現在にまで引きずられていて、ほとんどの学者の論文では「大宰府」が用いられている。しかし、民間では「太宰府」が一般である。現地の市町村名は「太宰府市」となっているが、なんと学者の間では、「太」は俗字であるとされているようだ。

 どうしてこのようなことが起こったのか。最も根源的な原因は『日本書紀』にあるのだが、内倉さんによると、次のような経緯があったという。

 1930年代に高名な国史学者らが、「太を使う太宰府の名称は中世以後の文献にしかでてこない。本来、点のない大宰府だった」と主張し、遺跡や市の名称を「大宰府」とするようさかんに主張したのだ。

 なぜ学者らがそう主張したかというと、「ダザイフ」には大和政権が派遣した『大宰』がいただけで、それ以前はなにもなかった。中世以前の文献には太宰府という書き方は出てこない。大宰の役所があったから大宰府というのだ」、ということになっていたからである。

 高名な学者らの主張とあって、新聞などでも遺跡の名を書くときは、わざわざ「大宰府」と書くようになった。幸い、市名までは変わらなかった。

 学者たちの主張するように、本当に「中世以前の文献には太宰府という書き方は出てこない」のだろうか。この主張が大ウソであることを、内倉さんは民間の研究者・荒金卓也さんの調査を紹介して指摘している。その調査結果は、全25文書のうち「大」だけ使用のもの8例、「太」「大」併用のもの4例、「太」のみのもの13例、である。このうち8世紀から10世紀までの文書で「太」を用いているものを書き留めると次のようである。

懐風藻…併用
唐大和上東征伝(淡海三船)…併用
入唐求法巡礼行記(円仁)…「太」のみ
続日本後記(藤原良房ほか)…「太」のみ
文徳天皇実録(菅原是義ほか)…「太」のみ
延喜式(藤原時平・紀長谷雄)…併用
倭名抄(源順)…「太」のみ

 懐風藻・延喜式・倭名抄などは学者たちが頻繁に用いる資料である。学者たちが荒金さんが指摘したような事実を知らないはずがない。古田古代史を無視するのと同じ心性がよく表われている。自らの知識を恃む傲慢さと一般の門外漢に対する蔑視という心性。古代史学者に限らず、二流以下の知識人ほどこうした心性を恥じない。「どうせ一般庶民にはわからないさ」。

 私は穿ちすぎているだろうか。内倉さんは優しい。

 伝承を軽蔑し、あまつさえ事実でもないことを声高に主張していたことになる。しかし今は、「学者らは本当に知らなかった」と、その良心を信じたい。

 ともあれ、荒金さんが作った一覧表をみるとわかるが、「八世紀に大和政権内部で作られた史書」は一貫して「大宰府」であるが、そのほかの本では「太宰府」ないしは「大宰府」であることがわかる。言い換えれば、「大宰の庁である大宰府」を主張しているのは「大和政権」だけで、他の文書はこれに疑義をはさんでいるといえる。

 現在、九州歴史資料館は、間違いを認めたうえで、先輩をかばってか、「大に点があるかどうかは、その時の書き手の筆の勢いである。どちらでもいいのだ」という。それならば、最初から問題にすべき問題でなくなるのではないか。

 「大宰」のほうは近畿王朝の創作用語であった。では「太宰」のほうは何に由来するのだろうか。こうした問題は博覧強記の人・古田さんの独壇場である。

 『宋書』には「開府儀同三司」「~六州諸軍事」という言葉と共に「太宰」が頻出するという。「開府儀同三司」「~六州諸軍事」は『宋書・倭国伝』の倭王武の上表文にも出てくる。

興死して弟武立ち、自ら使持節都督、倭・百濟・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王と稱す。
 順帝昇明二年、使を遣わして表を上(たてまつ)る。曰く、『……竊(ひそか)に自ら開府儀同三司を仮し、其の余は咸(み)な仮授して、以(もつ)て忠節を勧(すす)む』と。詔して武を使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に除す。


(以下、古田さんのお話を要約しようと思っていたのですが、たいへん面白いお話なので皆さんもきっと興味を持つだろうと勝手に予想し、少し長くなりますが、直接引用することにしました。)
 これらとよく似た感じの官名の“サンプル”を一身にになっている人物がいます。それは、江夏文献王、義恭(ぎきょう)。彼の生涯の官名遍歴を具体例として追跡してみましょう。
 彼は高祖(宋の第一代、武帝。420~422)がことに寵愛した子供で、「幼にして明穎( (めいえい あきらかでさとい)姿顔美麗」、他の子供たちの及ぶところではなかった、と書かれています。いわゆる“秘蔵っ子”です。彼は景平2年(424)「監、南予・予・司・雍・秦・并、六州の諸軍事、冠軍将軍、南予州刺史」という官名をもらい、歴陽(安徽あんき省和県)に赴任(ふにん)した、と言います。時に12歳。“可愛らしい将軍”だったことでしょう。

 ここにあらわれている「諸軍事」というのは、上にあげられた六州に対する軍事的支配権、というわけですが、ここには一つの“カラクリ”があります。はじめの南予州と予州の二州はたしかに宋(南朝劉宋)の領域内です。ところが、あとの四州は、北朝側、魏(北魏)の域内なのです。「そんな、ばかな。他国の領内に対して、何で」とおっしゃる方があるかもしれませんが、そこが大義名分論の“妙味”です。

 今、わたしたちは“南北朝”などと気安く呼んでいますが、当の五世紀時点では、そんな言葉はありません。南朝側の宋の視点では、北半はたまたま「叛乱賊軍の不法占領下にある」ということになります。ですから、当然、その領域内の各州あての軍事担当者の官職名が必要、というわけです。北魏の側から言うと、事態は当然逆になるわけです。

 さて、高祖の“秘蔵っ子”義恭は、元嘉9年(432)次のような官号を与えられます。十九歳頃のことです。

徴して都督、南兗・徐・兗・青・冀・幽、六州、予州の梁郡、諸軍事、征北将軍、開府儀同三司、南兗州刺史と為り、広陵に鎮す。(宋書武三王伝)

 今回は南兗州・徐州・兗州・青州の四つが宋の域内の“実州”で、冀州・幽州は北朝内、例の名義だけの“虚州”です。これらの州はすべて都(建康)から見て北方にありますから、「征北将軍」という称号が与えられているわけです。

 ところでここに新たに与えられた官名、それが例の「開府儀同三司」です。この官名の解説をしてみましょう。

 まず、「開府」というのは、「~府」という「府」(官省。官吏の止まる所)を開く権限を与える、ということで、『宋書』には、この「~府」がたくさんでてきます。 ―天府・大府・東府・州府・領軍府・司徒府・丞相府・大司馬府・太尉府・司空府・衛軍府・安北府・相国府・平北府といったように。

 次に「儀同三司」というのは、「儀は三司に同じ」つまり“儀礼上、三司と同じと認める”というわけで、その「三司」とは、「太尉・司徒・司空」の総称です。漢代に設けられた官名ですが、この南朝劉宋でも用いられていました。トップクラスの高官です。先にあげた「太尉府」「司徒府」「司空府」などは、これらの高官統轄下におかれた「府」ですが、これに準じた府を開く権限を与える。これが「開府儀同三司」です。

 戦前、日本の軍隊でも「佐官待遇」といった言葉があったようです。年配の方はご存じだと思いますが、あれです。「大佐・中佐・少佐」といった佐官そのものではないが、それに準ずる待遇を与える、というわけです。

 魏の黄権にはじまったといわれる、この「開府儀同三司」の官名は、この『宋書』にもしばしばあらわれてきます。

 こうしてみると、倭王武がまず自称した上で、その承認を求めたという、この一連の称号は、この天子の“秘蔵っ子”義恭の称号のスタイルそっくりだ、 ―この点にまず注目しておきたいと思います。つまり倭王側は、この南朝内部の官名構成をよく“のみこんだ”上で、自称したり、追認要請したり、しているわけです。

 このような官号昇進コースの“上あがり”はどこか。それをしめすものが、この江夏王義恭が死んだときの官号です。

大明八年(464)前廃帝即位し、詔して曰(いわ)く、『・・・太宰、江夏王義恭、新たに中書監、太尉に除す。・・・』(宋書武三王伝)

 「太宰と太尉」の兼任。すなわち「太宰府と太尉府(「三司」の筆頭)」を共に統轄していたのです。事実、その前々年には、

大明六年(462)司徒府を解く。太宰府は旧(もと)の辟召(へきしょう 任官)に依る

として、彼が「太宰府」を統轄していたことが明記されています。

そしてその上は、 ―もう天子しかありません。しかし、彼は天子にはなれませんでした。大明8年、世祖(孝武帝)の死と共に天子の座についた新帝(「前廃帝」)によって突如虐殺されてしまったからです。

 それは年号の変った永光元年(464)の8月のことでした。新帝はみずから羽林の兵(近衛兵)をつれて彼(義恭)の邸宅を急襲し、彼と4人の子供を皆殺しにします。それだけではありません。彼の死体を切り割(さ)き、腸や胃を分ち裂き、目玉(眼精)をえぐり取り、これを蜜にひたして、「鬼目粽(きもくそう)」(粽は“ちまき”)と称した、と書かれています。ナンバーワンがナンバーツーを憎しみをこめて消し去る。そういう図のようです。

 ここで古田さんは『宋書』における官名関係を整理している。

官位は全部で「九品」に分れている。
第一品
太宰(たいさい)・太傅・太保・太尉・司徒・司空。大司馬・大将軍。諸位従公。
第二品
驃騎・車騎・衛将軍・諸大将軍。諸持節都督。
……

 つまり太宰は最高官位ということになる。

 倭王武は「使持節都督」「安東大将軍」に任ぜられていますから、「第二品」に属します。そして同時に「開府儀同三司」つまり、第一品の「太尉・司徒・司空」に準ずる位置を自称したのです。

 これは直接には、高句麗王と“はりあう”ところに直接の動機があったように思われます。なぜなら高句麗王はすでに、

(大明七年〔463〕七月)征東大将軍、高麗王高璉、車騎大将軍、開府儀同三司に進号す(宋書孝武帝紀)

とあるからです。倭王武の上表文は、この15年後ですが、そこには、

而(しか)るに句麗無道にして、図りて見呑(けんどん)を欲し、辺隷を掠(りゃく)抄し、虔劉(けんりゅう)して已(や)まず

と、高句麗を最大の敵対者として訴えています。そのあとで例の「開府儀同三司」の自称に及ぶのですから、「あの高句麗王がもらっているのに、なぜおれが」という口吻が感じられます。

 しかし高句麗に対して、宋朝の期待するところは大きかったようです。

元嘉十六年(439)太祖、北討せんと欲し、璉に詔して馬を送らしむ。高璉、馬八百匹を献ず」(宋書九十七高句麗伝)

とあるように、大量の馬が献上されています。その上「北魏に対する東辺からの圧力」も期待していたことは当然でしょう。宋朝はこの倭王の要求をうけいれませんでした。ために倭王側の不満を買ったようです。何しろ、倭王は、西晋の滅亡(316)後、朝鮮半島中央部の楽浪・帯方郡が空白化した、その間隙をぬって、東夷世界において「中原に鹿を逐(お)う」大決戦を高句麗にいどんでいたのですから(その状勢に対する、高句麗側からの記念碑、それがあの有名な高句麗好太王碑です)。

 これ以後、倭王の“自己誇示”はいよいよ昂進し、ついには中国の天子とみずからを対等におく「日出ずる処の天子」の自称にまで至ったことは、すでによくご承知ですが、その一点に至る前に、“必至の関門”があります。 ―それは臣下としての最高位、「太宰」の自称です。

(中略)

 このことは何を意味するか。 ―それは南北朝対立時代、倭王にとって「天子」は「南朝の天子だけ」でした。北朝の天子は「ただ北方の夷蛮(索虜)が大義に反して、天子を自称しているだけ」。そう見えていたのです。その肝心の「南朝の天子」亡き今、隋の天子と自分とは、対等だ。 ―これが多利思北孤の「天子自称の論理」だった、と思われます。

 とすると、南朝との国交が健在だった当時、倭王の自称は、たかだか「臣下としての最高位」どまりに依然とどまっていた、と考えなければなりません。 ―「太宰」です。すなわち、倭王の都、それは「太宰府」と称されていたのです。

 では、日本列島の中に「太宰府」なるものが存在した痕跡があるでしょうか。ご存じのように一つだけあります。ズバリ言えば、それが倭国の都です。

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