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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(27)

「天智紀」(15)


「太宰府」について(1)


 「太宰府」につても『日本書紀』の記事は「?」だらけである。

 『日本書紀』には「大宰府」が三回出てくる。初出は 『「唐の占領軍」記事』 で掲載した671年(天智10)年11月10日の記事。最初の部分だけ再録する。

 對馬國司、使を於筑紫大宰府(おほきみこともちのつかさ)に遣して言さく、「月生(た)ちて二日に、沙門道文・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐、四人、唐より來りて曰さく、……

 あとは「天武紀」と「持統紀」に1回ずつ出てくる。

677(天武6)年11月1日
 雨ふりて告朔(ついたちまうし)せず。筑紫大宰(おほみこともち)、赤烏(あかがらす)を獻れり。則ち大宰府(おほみこともちのつかさ)の諸司の人に、禄賜ふこと各差有(おのおのしなあ)り。且専(またみづか)ら赤烏を捕れる者に、爵五級を賜ふ。乃ち當郡の郡司等に、爵位を加増したまふ。因りて郡内の百姓に給復(つきゆる)したまふこと、一年。是の日に、天下に大赦したまふ。

691(持統5)年正月14日
詔して曰はく、「直廣肆筑紫史益、筑紫大宰府典(おほみこともちのつかさふびと)に拜(め)されしより以來、今に二十九年。清白(あきらけ)き忠誠を以て、敢へて怠惰(たゆ)まず。是の故ゑに、食封五十戸・絁(ふとぎぬ)十五匹・綿二十五屯・布五十端・稲五千束腸ふ」とのたまふ。


 『日本書紀』は「太宰府」を大宰(おほみこともち)という地方行政官の役所として扱っている。「大宰」という役職名の初出は「推古紀」であり、次は「皇極紀」に3例、次はずーっと跳んで「天武紀」に11例、次の「持統紀」に13例みられる。ただし、表記の例外として「天智紀」に「筑紫率」(つくしのかみ)、「天武紀」に「吉備大宰」がある。

 「太宰府」については後ほど詳しく取り上げることにして、役職名「大宰」を検討しよう。九州王朝の首都にヤマト王権が地方行政官「大宰」を任命・派遣するという噴飯記事だから、結論はもう目に見えているのだが、一応全記事を追ってみよう。

 「大宰」は「推古紀」の記事(609―推古17―4月)にいきなり現れて「筑紫大宰」とだけで名前が記録されていない。以下、「大宰」がどのように表記されているか調べてみる。

609(推古17)年4月…筑紫大宰

643(皇極2)年4月21日…筑紫大宰
643(皇極2)年6月13日…筑紫大宰
649(大化5)年3月
 是の月に、…日向臣を筑紫大宰帥(おほみこともちのかみ)に拜(め)す。

671(天智10)年6月
是の月に、栗隈王を以て筑紫率とす。

 斎藤里喜代さんが「太安萬侶」という論文で、『日本書紀』編纂を主導したのは太安萬侶であることを論じている。さらに安萬侶の出自は九州王朝であること、『日本書紀』には安萬侶によって九州王朝の残映がそれとなく盛り込まれていること論証しいている。そして最後に、次のような「太安萬侶が苦悩のすえ残した日本書紀の法則」をとり出し、それの論証も行っている。(論証は省略する。)

法則その一
 是歳条、是月条は近畿王朝以外の別王朝の別時代の記事である。

法則その二
 固有名詞や代名詞の一部省略、一部添加はしても改定は絶対にしない。元史料のまま書く。表記の違う名は、別文献である。

法則その三
 またの名、更の名は別人である。

法則その四
 名をもらせりは敗戦国九州王朝の人物であり、名は解っている。

法則その五
 割注以外の振り仮名は漢文に疎い近畿王朝の史官たちのための意訳である。

法則その六
 摂政と称制は九州王朝と近畿王朝の天皇の男女の差や戦で留守がちの天皇の転換のトリックである。

 「法則その四」について補足すると、「なおもらせり」というような注釈がなくとも、官位や役職名だけで全く名前が出てこない「名無しの権兵衛」もこの中に入ると、私は考えている。上の「大宰」5例は「法則その一・その四」のケースである。

672(天武元)年6月26日…筑紫大宰栗隅王

673(天武2)年8月25日…大宰

 この「大宰」は記事の流れから推測すれば「栗隅王」ということになるが、この3年後に流罪になる別名の筑紫大宰がいる。どこで入れ替わったのか、不明。

676(天武5)年9月12日
 筑紫大宰三位屋垣王、罪有りて土左に流す。
677年(天武6)年11月1日…筑紫大宰(あの赤烏献上者)
679(天武8)年3月9日…吉備大宰石川王(死亡記事)

 筑紫大宰はどこかで栗隅王から屋垣王に代わっていて、屋垣王は流罪になっているのだから、赤烏を献上した「筑紫大宰」は名前不明と言うことになる。

 「吉備大宰」について、岩波大系の頭注はつぎのように解説している。

「播磨風土記には総領とある。続紀、文武四年十月条に見える吉備総領も同一であろう。総領は筑紫大宰と同様、地方支配上重要な国におかれ、近隣数か国の行政を管轄する職で、大宝令施行とともに大宰府(筑紫大宰)を除いて廃止された。周防(十四年十一月条)・伊予(持統三年八月条)の例がある。」

 「総領」は全て「すべをさ」と訓読されている。天武14年11月条の周防の行政官は「周防総令」となっていて、「すぶるをさ」と訓じている。「総領=総令」と考えてよいだろう。当然総領は九州王朝の管轄下にあった。

 「総領」は大宝令施行にともなって廃止されたが、近畿王朝が正式に筑紫大宰を任命・派遣できるようになったのもこの頃からではないかと思う。『続日本紀』での筑紫大宰任命記事の初出は702(大宝2)年8月16日の条である。「正三位石上朝臣麻呂を以て大宰師とす」とあり、かなりの高官が任命されている。いまだ九州王朝の亡命政府が存続していたのだから大宰師の役割は相当に重要だったに違いない。以後、『続日本紀』には太宰府関係の記事が頻出する。

、 682(天武11)年4月21日…筑紫大宰丹比真人嶋
682(天武11)年8月13日…筑紫大宰
683(天武12)年正月2日…筑紫大宰丹比真 人嶋
685(天武14)年11月2日…筑紫大宰
686(朱鳥元)年閏12月…筑紫大宰
687(持統元)年4月10日…筑紫大宰
687(持統元)年9月23日…筑紫大宰
688(持統2)年2月2日…筑紫大宰
689(持統3)年正月9日…筑紫大宰粟田真人朝臣
689(持統3)年6月20日…筑紫大宰

 相変わらず任命記事なしで大宰が入れ替わっている。ただこの頃には唐による倭国傀儡政権と近畿王権との間でさまざまな折衝・談判が行われただろう。そのために近畿王権から太宰府へ代表団が送られたことは容易に想像できる。その代表団の長に「筑紫大宰」という役職名を粉飾したと思われる。

689(持統3)年閏8月27日
 浄広肆河内王を以て、筑紫大宰師とす。
690(持統4)年7月6日…大宰
690(持統4)年10月15日…筑紫大宰河内王
692(持統6)年閏5月15日…筑紫大宰率河内王
694(持統8)年4月5日…筑紫大宰率河内王
694(持統8)年9月22日
 浄広肆三野王を以て、筑紫大宰率に拝す。

 河内王は浄広肆川内王という表記で「天武紀」初出する。

686(朱鳥元)年正月
 是の月、新羅の金智祥を饗たまはむが為に、浄広肆川内王・直広参大伴宿禰安麻呂・直大肆藤原朝臣大嶋・直広肆堺部宿禰鯏魚・直広肆穂積朝臣虫麻呂等を筑紫に遣す。


 河内王は万葉集にも名をとどめている。417番・418番・419番歌である。

河内王を豊前国鏡山に葬れる時、手持女王のよみたまへる歌三首

王(おほきみ)の親魄(むつたま)あへや豊国の鏡の山を宮と定むる
豊国の鏡の山の石戸(いはと)闔(た)て隠(こも)りにけらし待てど来まさぬ
石戸破(わ)る手力(たぢから)もがも手弱(たわや)き女(め)にしあればすべの知らなく


 明らかに九州王朝出身の王である。この王は、686(朱鳥元)年9月27日の記事で、天武の死に際して「誄(しのびごと)」をしている。九州王朝に見切りをつけて、近畿王権に帰属した王かも知れない。

 「持統紀」最後の大宰・三野王は672(天武元)年条の筑紫大宰栗隅王の子息である。栗隅王は壬申の乱の時、大友皇子側からの加勢要請を拒否して大海人皇子側についた王である。ちなみに三野王は橘諸兄の父である。橘諸兄は近畿朝廷で正一位・左大臣にまで上りつめている。
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