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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
520 認識論と矛盾論(10)
粛清の論理
2006年6月10日(土)


 実現することが同時に解決であるような矛盾が非敵対的矛盾であり、また変革し止揚することが解決であるような矛盾が敵対的矛盾である。このことは階級関係とは直接には関係しない論理である。
 また人間の認識が矛盾をふくんでいること、すなわち法則あるいは命題などは、相対的真理であり、つねに相対的誤謬へ転化する可能性がふくまれていることも、階級的矛盾と直接の関係はない。階級が消滅したのちにおいても、人間の認識を規定する本質的な矛盾として、消滅することのない矛盾である。

しかし毛沢東はそうはいわない。

「客観的矛盾が、主観の考えに反映して、概念の矛盾した運動を構成し、人びとの考えを発展させ、人びとの思想問題を絶えず解決してゆくのである。党内でも、異った見解の対立や闘争が生れる。これは社会の階級的矛盾および新しいものと古いものとの矛盾が党内に反映したものである。」
「共産党内のただしい思想とまちがった思想との矛盾は、さきにのべたように、階級が存在している場合には、階級的矛盾の党内への反映である。」

 これに対する三浦さんの論述は次の通りである。


 共産党内のまちがった思想も、人間の認識を規定する矛盾とのかかわりあいにおいて、真理から誤謬への移行において、とりあげられなければならないのだが、毛沢東は認識活動をめぐる特殊な矛盾のありかたを無視して思想の矛盾を直接に階級的矛盾にむすびつけ、その「反映」ときめてしまっている。これは、認識活動における「内的矛盾」を無視することであり、思想と現実の生活との相対的な独立を無視して「外的矛盾」をそのまま内部に「反映」させるという、機械的な反映論である。毛沢東自身のことばを借りて彼にさしむけるなら、

「わが教条主義者たちのこの問題でのあやまりは、一方では、矛盾の特殊性を研究し、それぞれの事物の特殊な本質を認識しなければならないこと……がわからない点にある。」

 認識の特殊な本質、特殊な矛盾についてのマルクス主義的な理解を欠いている点にある。それではこの思想の矛盾と階級的矛盾の直結は、実践的にどういう事態をひきおこすであろうか?いうまでもなく、誤謬が直接に階級関係とむすびつけられることになる。同志が悪い条件のもとにおかれ、能力が十分でなかったために、真理を誤謬に転化ささせてしまったり、実践で失敗してしまったりしたとき、これは敵の思想に感染したものであるとか、敵の手先になって撹乱工作を行ったのであるとか、いずれも「階級的」な外的矛盾との関係で解釈されることになる。
こうして、スターリン的な不当な汚名をきせる粛清工作の理論的な根拠となる一方では、真に「階級的」な立場に立つ者は誤謬などありえないという考えかたにもなり、革命の指導者に対する神格化はもちろんのこと、労働者階級ないし人民に対する崇拝が、大衆はつねに正しいのだという大衆追随が、否応なしに出てくるのである。さらに、党内の矛盾にしても社会主義社会の矛盾にしても、その闘争の形態が見たところ敵対的になれば、毛沢東矛盾論にもとずいて非敵対的矛盾が敵対的矛盾に転化したものであり、同志が敵になり人民が敵になったのであるという結論にいたらざるをえない。

 以上のように、矛盾における闘争は絶対的だというレーニンの行きすぎた規定は、敵対的矛盾と非敵対的矛盾との正しい区別を妨げ、思想的矛盾の敵対性を現実の生活における敵対性にもとずくものと解釈させ、ついにソ連や中国におけるスターリン的な粛清の論理に発展したのであった。

 レーニソはその遺言で、スターリンを責任ある地位からおろさないと危険であるといい、スターリン的粛清を押えるための組織的な配慮を主張したのだが、何ぞはからん、彼が自分のノートに記しておいたあやまりは、スターリン的粛清を合理化し正当づけるような理論へ成長する可能性をふくんでいたのであって、ソ連のみならず中国にまでスターリン主義をはびこらせるために役立ったわけである。

 それはレーニンにとって小さな誤謬にすぎなかったが、「小さな誤謬をどこまでも固執し、それにふかい基礎づけをあたえ、それを『究極にまでもってゆく』と、いつでもその小さな誤謬から、とてつもない大きな誤謬がつくり出されるのである!」(『共産主義の「左翼」小児病』)

 彼もおそらくあの世で苦笑いしていることであろう。



『大衆はつねに正しいのだという大衆追随』の例として、毛沢東思想が牽引した中国の文化大革命という悲劇が思い出される。

 誤謬は誤謬と知っていれば有用な認識であるが、誤謬に気づかずに放置すれば、たとえそれが小さな誤謬であっても大きな悲劇を生む原因ともなる。人類の歴史を覆いつくしている殺戮の原因は、富と権力への欲望という妖怪だけの所為にはできないだろう。そのおおもとには常に理論上の誤謬がこびりついていると思う。特に宗教がらみの殺戮を目の当たりにするとき、宗教そのものが認識論的誤謬の産物であることを指摘しないわけにはいかない。ロシア・マルクス主義のイデオロギーは一種の宗教であるとはもう言い古された言説だが、まさにその通りだと改めて思う。

(論文「レーニンから疑え」はこのあと「国家論」の誤謬、社会主義における「賃金問題」と続きますが、それらはこのシリーズのテーマをこえる問題なので、ここでこのシリーズを終わることにします。次回から中断していた『「良心の自由」とは何か』に戻る予定です。)
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