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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(26)

「天智紀」(14)

天智の履歴の謎


 これまで見てきたように「天智紀」は矛盾だらけの史書である。おかしなことがまだまだ出てくる。だいたい天智の履歴がおかしい。

 630(舒明2)年正月12日
 寶皇女を立てて皇后とす。后、二の男・一の女を生れませり。一を葛城皇子と曰す。〈近江大津宮御字天皇なり。〉二を間人(はしひと)皇女と曰す。三を大海皇子と曰す。〈浄御原宮御宇天皇なり。〉


 葛城皇子という呼び名はここだけで以後全く使われていない。〈近江大津宮御字天皇なり〉という本文の注が、葛城皇子は後の天智であることをほのめかしている。そして、この条の岩波大系頭注が「通称は中大兄」と書き、「葛城皇子=天智=中大兄皇子」という図式が作られている。しかし『日本書紀』本文には「葛城=中大兄」を示す文はない。中大兄は644(皇極3)年正月の記事にいきなり現れる。中大兄と中臣鎌子(かまこ 後の藤原鎌足)との出会いの記事である。鎌子もこの記事での突如の登場である。長い物語なので現代語訳で引用する。

644(皇極3)年正月1日
 中臣鎌子連(なかとみのかまこむらじ)を神祇伯に任じたが、再三固持して受けなかった。病と称して退去し、摂津三島に住んだ。
 このころ軽皇子(かるのみこ 後の孝徳)も脚の病で参朝できなかった。中臣鎌子はかねてから軽皇子と親しかった。それでその宮に参上して侍宿をしようとした。軽皇子は鎌子の心映えが高潔で、容姿に犯しがたい気品のあることを知って、もと寵妃の阿倍氏の女に命じて、別殿をはらい清めさせ、新しい寝具を用意させて、万事こまごまとお世話なさった。その敬い崇めること、特別であった。鎌子はその厚遇に感激して舎人に語った。
「このような恩沢を賜わることは思いもかけぬことである。皇子が天下の王とおなりになることを、誰もはばむ者はないだろう。」
 舎人は語られたことを皇子に申し上げた。皇子は大いに喜ばれた。
 鎌子は人となりが忠正で、世を正し救おうという心があった。それで蘇我入鹿が君臣長幼の序をわきまえず、国家をかすめようとする企てを抱いていることを憤り、つぎつぎと王家の人々に接触して、ともに計画を成し遂げ得る明主を求めた。そして心を中大兄に寄せたが、近づく機会がなく、自分の心底を打ち明けることができなかった。たまたま、中大兄が法興寺の槻(つき)の樹の下で、蹴鞠をしていた仲間に加わって、中大兄の皮鞋が蹴られた鞠と一緒にぬげ落ちたのを拾って、両手に捧げ進み、跪いてうやうやしくたてまつった。中大兄もこれに対して跪いてうたうたしくうけとられた。このときから二人はお互いによしみを通じ、共に心中を明かし合った。


 葛城は舒明の第一皇子だから、当然次期大王の第一候補者であったろう。葛城の生年が書かれていないが、寶皇女が舒明の后になった年を葛城の生年として話を進めると、舒明の没年が641年だから、葛城はそのとき11歳。この年齢で大王位を継げば、母親(皇極)は本来の意味での称制にあたる。しかし称制ではなく母親が大王位を継いだ。

 644年の中大兄と鎌子の出会いとき、「葛城=中大兄」とすると中大兄は14歳。しかもその翌年、15歳で蘇我蝦夷・入鹿親子を誅殺したことになる。相当に早熟ということになるが、15歳ならそのようなことを実行できる年と言えなくもない。15歳にしてそのような大それたことできる器であるのなら、皇極の後を継いで大王になってもよさそうだが、665年に皇極が譲位して大王になったのは皇極の弟(孝徳)であった。しかし、中大兄はここで初めて正式に皇太子になった。

 分かりやすく表にしてみる。

  629
  │
舒明│寶皇后630
  │
  641
  │
皇極│寶皇后が継ぐ
  │
  645 中大兄皇太子に
  │
  │軽皇子
孝徳│皇極の同母弟
  │
  654
  │
斉明│皇極の践祚
  │
  661
  662
  │
  │天智称制
  │
  668
  │
天智│
  │
  671

 孝徳の没したとき中大兄は24歳。当然皇太子の中大兄が大王位を継ぐべきだが、またまた母親が重祚(斉明)する。天智称制の7年間は「斉明紀」の切り取りとすると、斉明の没年は埋葬年(667年)かその前年で、中大兄はその翌年(668年)にようやく即位する。時に齢38歳。

 いまだ仮説でしかないが、中大兄と鎌子(鎌足)の突然の登場とそのときの中大兄の年齢の王位継承の不自然さから、私は「葛城≠中大兄」ではないかと考えている。後に取り上げる予定だが、鎌足は九州王朝にゆかりの人物であることは確実だと思われる。そうすると白村江の戦いの時、中大兄(天智)は斉明の皇太子として筑紫で留守役の一端をになっていたという説もあるが、中大兄は九州王朝の王族の一人であったという可能性も出てくる。するとこの問題は 「近江遷都」 の問題と関連してくる。だがまだ結論は急ぐまい。
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