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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(24)
「天智紀」(13)
「白村江の戦」の戦後処理(5)
軍事防御施設の造営


 もしもヤマト王権が白村江の戦いを戦った中心勢力だとしたら、とても不可思議な記事が「天智紀」にはてんこ盛りになっている。敗戦直後の大土木工事もその一つだ。総力を挙げて用意した船艦400艘が海の藻屑となり、多くの兵士が殺戮されたり捕虜になった壊滅的な敗北で、財政面でも人的資源においても、国力は枯渇していただろう。しかも唐からの占領軍が筑紫に進駐してきている真っ最中である。そのような状況下で、次のような大工事を行っている。

664(天智3)年
 是歳、對嶋・壱岐嶋・筑紫國等に、防(さきもり)と烽(すすみ)とを置く。又筑紫に、大堤を築きて水を貯へしむ。名(なづ)けて水城(みずき)と曰ふ。

665(天智4)年8月
 秋八月、達率(だちそち)答[火本]春初(たふほんしゆんそ)を遣して、城を長門の國に築かしむ。達率憶禮福留(おくらいふくる)・達率憶四比夫(しひふくぶ)を筑紫國に遣して、大野及び椽(き)、二城を築かしむ。

667(天智6)年11月
 是の月に、倭(やまと)國の高安城・讃吉(さぬき)国の山田郡の屋嶋城・對馬國の金田城を築く。

670(天智9)年2月
 ……又、高安城を修りて、穀と塩とを積む。又、長門城一つ・筑紫城二つ築く。


 670年の記事のうち「長門城一つ・筑紫城二つ築く」は明らかに665年の記事の重複記事だろう。『日本書紀』は、いろいろな史料から切り貼りしたり、全くの作り話を挿入したりして作られた史書だから、このような不細工があちこちに現れる。

 ただ一つヤマトに築かれた城(高安城)がある。岩波大系の頭注は次のように解説している。

「遺構は奈良県生駒郡と大阪府八尾市の境、高安山。東西・南北各二キロに近い山間を占め、壬申の乱に争奪の対象となったが、大宝元年八月に廃城。舎屋も移転した。大門・谷門・古門・北矢倉・南矢倉などの現地名との関係は未詳。」

 大掛かりな山城だったことをによわせるような記述だが、実際はどうだったのだろうか。

 下山昌孝という方が「古代山城を訪ねて」という論文を書いている。その中で高安城について次のように報告している。

「近畿天皇家防衛の拠点であるから、今まで数々の調査が行われた筈であるが、現在までの所、敷石造り建物跡二棟が発掘されただけで、城壁(石塁や土塁)や城門など山城を示す遺構は全く発見されていない。築城自体を疑問とせざるを得ない。」

 この下山さんの疑問は当然だろう。天智の近江遷宮は667(天智6)年3月19日と記録されている。つまり高安城築城当時、天智は近江に宮居を構えていた。奈良に防護施設を築くなんてナンセンスだ。

 670年の記事に「又、高安城を修りて、穀と塩とを積む」とあるが、この記事は城を修理したという記事だから、667年の築城記事の重出ではない。そして、築城記事ではないので上には挙げなかったが、同じような記事がもう一つある。

669(天智8)年
是の冬、高安城を修りて、畿内の田税を収む。


 高安城に田から取り立てた租税を収納したと言っている。これらの記事からは、高安城は山城というような大層なものではなく、「穀と塩とを積」んだり「田税を収」める倉庫程度のものだったと考えられる。

 高安城以外の山城や水城は遺構が残っている。その遺構から、それらの城はかなり大掛かりな軍事施設だったことをうかがい知ることができる。天智が筑紫に築いたという2城は「大野及び椽(き 基肄)」と地名がはっきりと書かれているので、その2城についての下山さんの報告を転載しよう。

(1)大野城(福岡県太宰府市と宇美町)
 太宰府・都府楼跡の北、四王寺山(標高410m)の山頂から、北西側に展開する山城である。一般には日本書紀の記述から、白村江の敗戦後に築かれたとしている。しかし古田武彦氏が何時も指摘しているように、白村江の後には唐の進駐軍が筑紫に来ているのであり、そのような時に「唐に対する山城」などを築かれる筈がない。大野城はそれよりかなり前に築かれた朝鮮式山城であると推測される。石塁・土塁の総延長は約6.5㎞に及び、古代山城の中では最大規模である。城門は4ヶ所が確認され、城内に70棟以上の礎石造り建物跡が発掘されている。
 大野城から派生する尾根に連なって水城(総延長約1.2kmの堰堤)が築かれ、山城と水城が一体となった防御施設を構成している。水城も従来の学説では白村江戦後(7世紀後半)の築造とされているが、内倉武久氏が確認したところによると、炭素年代で430±30年(較正値は540±40年)とのデータがあり、6世紀前半以前の築造と考えてまず間違いない。
 大野城は九州王朝の都・太宰府都城の北にあり、高句麗の都・集安の国内城と丸都山城と同様な配置である。

(2)基肄城〈佐賀県基山町〉
 太宰府の南、基山(海抜404m)から南方に展開している。城壁の総延長は4.3km、4ヶ所の城門が確認されている。城内には40棟以上の礎石建物跡が発掘されており、大野城と対になった有明海側を睨む山城である。

 次に、水城とはどのような軍事施設なのだろうか。

 大野城・基肄城・水城・神籠石(こうごいし)が一体となって太宰府を護るように配置されている。このような形態の都城は羅城と呼ばれている。百済の王都扶余の山城配置と相似している。筑紫の羅城全体の規模は東西8キロ、南北8キロ(一部は10キロに及ぶ)の大面積となるという。

 では水城とは何か。今度は田中敬一さんの論文『「白村江」後の倭の防衛戦略』(「古代に真実を求めて・第12集」所収)から引用する。

 次に羅城を構成する水城や朝鮮式山城のひとつひとつに目を転じると、その構築物の大きさに驚かされる。水城は全長1.2キロ、基底部幅72メートル、高さ13メートルという巨大な土塁を中心とした遺構である。北の博多側(外側)には幅60メートルの堀があり、この堀への導水する施設として土塁を横断する木樋(全体の長さ約80メートル、幅二1.2メートル、高さ0.8メートルの木製導水管)が三本出土している。敵の侵入を堀に溜められた水で防ぎ、高さ13メートルという急激な角度をもった土塁で羅城内にいれないようにする防御網である。

 その土塁は、基底部から粘土と山砂でつきかため、その境目に樹皮・木葉などをはさむ版築技法で築造されている。水城の下部の軟弱な地盤の滑りを押さえるための「敷粗朶工法」が採用されており、土木工学の高い技術を窺うことができるが、そのために各粗朶層から木材が出土する。水城の粗朶層は計11層認められ、それぞれが粗朶を敷いて粘土を10センチ~20センチ程入れたものが交互に繰り返され、木材は太いものでも3~4四センチ程度で、ほとんどは径1センチ程の小径の枝である。各粗朶層から出土した木材の年代は、放射性炭素年代測定法により、それぞれ中央値が660年、430年、240年を示したとある。

(中略)

 九州歴史資料館によれば、一年間でこの「水城」を完成させるには延110万人強の労働力が必要であると詳細なる工程分析による算定がなされている。

(中略)

 さらに水城の西側丘陵に小水城と総称される土塁が存在し、規模を見ると、天神山・大土居・上大利の築堤は、それぞれ長さがおよそ70、75、80メートルを測る。また、小水城に相当するものは、南方つまり有明海に画した方面にも認められる。基肄城東南麓の「関谷」および「とうれぎ」の土塁は、いわば南の小水城ともいうべきものである。

 このようにみてくると、太宰府防衛施設として、朝鮮式山城とともに、いわゆる水城などの遺構群も一体のものとして考えねばならない。水城大堤やいくつかの小水城に加えた若干の土塁群は、その間に連なる山稜を自然の要害とすれば、そこには羅城の概念が導入されているとされる。

 繰り返すが、以上見たような大掛かりな防衛施設は厖大な労力と財力を必要とする。短期日で完成されるはずがない。水城にいたっては、3世紀中頃から累々と築かれてきたようにも伺える。この大掛かりな防衛施設造営について、「定説」はどう解説しているだろうか。井上論文は、唐・新羅軍による高句麗殲滅戦を解説した上で、次のように述べている。

 朝廷が唐との国交をはかりつつも、唐の軍事力に大きな危惧をいだいたのはもっとものことである。

 朝廷は白村江の役の直後、664(天智3)年、対馬・壱岐・筑紫に防人と蜂を配し、水城を造ったが、翌年には、百済滅亡とともに渡来したとおもわれる答〔火本〕春初らをして、関門海峡を扼(やく)する長門に城を構えるとともに、同じく憶礼福留らをして筑紫に大野・椽の二城を築造せしめた。二城はさきの水城と一つのセットをなして、いまの大宰府をとりまく大規模の防衛施設であった。

 また667(天智6)年は、高句麗滅亡の前年にあたるが、平壌攻撃の予報にさらに大きな不安に襲われたのであろう。朝廷はその冬、対馬に金田城を築くとともに、防禦施設を筑紫以東にも及ぼして、讃岐に屋嶋城を造り、さらに倭京の守りとして、生駒山脈の南端に高安城を築き、畿内に侵入する敵軍に備えることにした。

 『日本書紀』の記述をそのまま信じている。上で見てきたような考古学上の事実を全く無視した見解である。とんでもない謬見と言わざるを得ない。

 ここで神籠石(こうごいし)についてふれておこう。神籠石とは岩をレンガ状に切りそろえて岩壁を組んだものである。軍事的要塞(古代山城)の遺跡である。岡山・愛媛・山口に各一ヵ所ずつあるが、他は全て九州北部に分布している。それら神籠石の寸法・尺度は全て統一されている。「天智紀」が挙げている金田城・大野城・基肆城などとともに、長い歳月と厖大な人力と財力を費やして、計画的に構築された巨大な要塞である。この神籠石については「記紀」には全く記事がない。現代のヤマト一元主義者たちも黙殺を決め込んでいる。

神籠石

 この分布図を見れば明らかように、神籠石は太宰府から筑後川流域を防御する形に配置されている。この統一した寸法・尺度で造られた神籠石は大宰府・筑後川流域にいた大王によって造られたもので、決してヤマト王権の王が造らせたものではない。

 下山さんは「古田武彦氏が何時も指摘しているように」と書いているが、以上のまとめとして古田さん解説を聞いてみよう。いろいろな論文でふれているが、今回は論文『教科書の聖域─「新しい歴史教科書批判」─』から引用する。


 百論せずとも、上の地図を見てほしい。「神籠石の分布図」だ。それぞれ、山の中腹や上腹に張り回された「軍事的山城」だ。巨石が延々と並び、その上に二重の城柵があった。兵士のみか、住民をも待避させうる広さ、深さ、そして必須の水を装置していた。この軍事体制にとっての「仮想敵国」は誰か。

 築造の時期は、従来の考古学編年(土器を中心とする)では、6~7世紀だ。近年の年輪測定や放射能測定では、「約百年以上」さかのぼる可能性が高い。5~6世紀初め(以前)からとなろう。「下限」は無論、「白村江の戦」(662、或は663)だ。

 当然、「仮想敵国」は“高句麗・新羅”そして“唐”とならざるをえない。すなわち、「高句麗好太王碑の中の倭軍」(4~5世紀)や「倭王武の上表文」(5世紀末)や「白村江の戦の当事者としての倭国」(7世紀後半)は、この「神籠石群につつまれた中枢地帯」(太宰府や筑後川流域)を権力拠点としていた「倭国」なのである。

 これは、当の敵対国であった中国(唐)の史書(旧唐書・新唐書)の語るところと完全に一致している。

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