2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(22)
「天智紀」(12)
「白村江の戦」の戦後処理(4)
「占領軍」は何をしに来たのか(3)


 白村江の戦いの後、唐・新羅の最優先すべき課題は長年の宿敵・高句麗の殲滅であった。そのためには背後の敵国・倭への憂いを解消することが必要不可欠だった。倭国に傀儡政権を樹立させた所以である。しかし、倭国には頑強に抵抗する勢力があった。669(天智8)年と671年(天智10)年の二度にわたる2000人の占領軍派遣はその対策のためであった。669年の記事は詳しい内容がないので、「定説」では671年条の重複記事とされている。しかし私は次のように考えている。

 初めの2000人は博多湾から上陸して抵抗勢力に迫ったが思うような進展が見られず、さらに2000人を派遣した。その2000人は有明海から上陸して、背後から迫った。挟み撃ちの作戦である。亡命政府は筑紫から肥後、さらに薩摩へと後退を余儀なくされた。

 亡命政府との戦いと同時に、占領軍は倭国の王宮・王墓・軍事施設などを破壊していっただろう。倭国はずっと南朝に帰属してきて、南朝が滅亡した後は自ら「「日出処の天子」を名乗っていた。唐にとっては「偽りの天子」であり、その痕跡を残すわけにはいかない。

 前権力の痕跡を物理的に抹殺することは、古代の覇権を賭けた戦争では常套手段であった。

 ローマがカルタゴを滅亡させたとき、カルタゴの都市は徹底的に破壊され、全くの更地にされてしまったという。さらに、後顧の憂いを払拭するため、カルタゴ人は虐殺されるか奴隷にされた。カルタゴ陥落時、ローマは5万人ものカルタゴ人を捕虜としている。

(古田さんの講演録「磐井の乱はなかった」を教科書に追加します。)

 隋が南朝・陳を滅亡させたとき、南朝の都・南京は、隋の軍隊に宮殿が壊されて跡形もなかったという。わずかに周りの古墳の、墓の番人のような辟邪(へきじゃ 神獣の一種)が残されているだけだった。

 百済を滅亡させた唐の軍隊も例外ではない。王を生け捕りにして長安に連れ去ったうえ、全てを破壊した。現在、新羅には王墓や遺跡が多く残っているが、百済には武寧王の墓が「土にまみれて、まぐれで残ったように」見られるだけだという。

 ではその破壊の痕跡は今に残っているだろうか。上記講演録後の質問に答えて、古田さんは次のように述べている。

 これをわたしが最初に感じたの土堤です。太宰府から有明海に向かって巨大な土堤が造られている。幅が5.6メートル、広いところはもっとある。高い土堤が造られている。それが何を意味するかは今のところわからない。結局潅漑のためとか、水害のそなえであるとか、いろいろの説があるがもう一つハッキリしない。それについて佐賀県教育委員会に電話すると幸いなことに徳富さんという方が出られた。この方は、この土手の問題について論文を書かれた専門の研究者だった。さっそく御自分の論文「肥前国三根郡の交通路と集落」(古代交通研究六号、一九九七年六月、徳富則久)と佐賀県教育委員会の資料を送って頂いた。堤土塁跡(県指定遺跡)となっている。この方はどうも軍事用のものではないかと書いておられる。それは納得できると、わたしは考えています。しかし、それは全体がつながっていない。太宰府近辺は、ちょんぎられているというか道路が途中で終わっている感じです。あれも唐の軍隊が来て、壊したと考えた一つの例です。

 もっとハッキリしているのは太宰府。あれが太宰府の遺跡だと現在展示してありますが、名前は朱雀門とか、紫宸殿とか、大裏とかの名前が点々と残っている。あれは今の太宰府には、ありうる名前ではない。天子の都にしかありえない名前です。きちんと残っています。それらの名前は残っていますが、太宰府遺跡としか扱っていない。しかし実は、あれは朱雀門遺跡、紫宸殿遺跡、大裏遺跡として扱わなければならない。それが破壊されて太宰府だけであるという形に残されているのではないか。今のところ、そのように考えています。

 そのように唐の軍隊が来て滅亡させた証拠というのは言い過ぎですが、痕跡とおぼしきところと考えています。神籠石もそうです。

 その他にも、これは古賀さんが詳しいですが、築後川流域でもかなり堤防や堀のようなものを造って壊された痕跡がある。また何の目的で作られたかわからない巨大な溜め池が、あちこちにある。従来は九州王朝という概念がないので意味不明なのです。しかしそれらを九州王朝という立場から、もう一度調べ直してみれば説明がつく。今のところ、そう考えています。

(「神籠石」については後ほど詳しく取り上げることになるだろう。)

 では、文献にはそのような破壊の記録は残っていないのだろうか。古田さんは『筑後国風土記』の中の「磐井君」を取り上げて、実に驚くべく説を展開している。

 古田さんは『失われた九州王朝』や『法隆寺の中の九州王朝』で「磐井の乱」を取り上げていた。私は『法隆寺の中の九州王朝』を用いて、その古田説を 「磐井の叛乱」 で、かなり詳しく紹介している。『古事記』や『日本書紀』が描く「磐井の乱」は大義名分を逆転して記録している。それは「磐井の叛乱」ではなく「継体のクーデター」だったというのが、古田さんの論旨だった。

 ところが、上のような今までの考えは誤った説だったと古田さんは言う。講演録「継体の乱はなかった」では、その後の研究の結果「磐井の乱」そのものが全部作り話だったというのだ。私にとってはまさに青天の霹靂だった。しかしその論証には「なるほど」と納得せざるを得なかった。

 古田さんが前説を考え直すきっかけになったのは、読者の方から指摘されて、次のような問題点に気づいたからだった。

 「継体紀」では磐井の乱は528(継体22)年のこことされている。九州年号の正和(526~530)年間にあたる。磐井の乱があって磐井が殺されたのに年号がそのまま続いているの変だ。また九州王朝は弥生時代から少なくとも7世紀末まで歴然と続いている。九州王朝・九州年号の概念と磐井の乱とは両立しない概念である。そこで新しい探求が始まったというわけだった。  さて、新説「磐井の乱」を紹介する前に、古田さんの論拠になっている『筑後国風土記』の「磐井君」を改めて読んでおこう。

 「磐井君」の前半部分は 「倭国の律令」 で掲載した。そのときに(以下「磐井の乱」の記述が続くが略す。)と、省略した後半部分がいま問題にされている。その部分は次のようである。

古老の傳へて云へらく、雄大迹(をほど)の天皇の世に當たりて、筑紫君磐井、豪強(つよ)く暴虐(あら)くして、皇風(おもむけ)に偃(したが)はず。生平(い)けりし時、預(あらかじ)め此の墓を造りき。俄にして官軍(みいくさ)動發(おこ)りて襲(う)たむとする間(ほど)に、勢の勝つましじきを知りて、獨自(ひとり)、豊前(とよのくにのみちのくち)の國上膳(かみつみけ)の縣(あがた)に遁れて、南山の峻(さか)しき嶺の曲(くま)に終(みう)せき。ここに、官軍、追ひ尋(ま)ぎて、蹤(あと)を失ひき。士(いくさびと)、怒泄(や)まず。石人(いしひと)の手を撃(う)ち折(お)り、石馬の頭(かしら)を打ち堕(おと)しき。古老(ふるおきな)の傳へて云へらく、上妻の縣に多く篤(あつ)き疾(やまひ)あるは、蓋(けだ)しくは玆(これ)に由るか。

 ここには『日本書紀』の記述とは大きく異なる点が二つある。一つは「記紀」では磐井は殺されたことになっているが、「風土記」では「遁れて…終せき」となっている。『日本書紀』の記述に合わせた物語を書いているとしても、磐井に同情的に書いている。二つ目は、「風土記」では磐井を見失った腹いせに石人や石馬を壊しているが、『日本書紀』にはその類の記述は全くない。

 (築後國『風土記』は)継体の軍勢が築後に来て、そして磐井を攻撃した。石人や石馬を壊したということを書いてある。事実、現在の岩戸山古墳に行くと模造品ですが、壊れた石人や石像が置いてある。だから『風土記』に書いてあるとおりだ。つまり『風土記』はほんとうだよ。学校の先生が生徒を連れて行けば、そのように説明されると思う。

 なるほどと、わたしも最初は思った。ですが行っているうちに、おかしいと気が付き始めました。なぜおかしいのかと言いますと葛子の問題。磐井には息子の葛子がいて、後を継いだと書いてある。葛子が壊れた石像を、そのまま大事に21世紀まで保存して伝えたのですかね。あんなものはやり直せばすぐです。あの石は材質は阿蘇山系ですから、たくさんある。もう一度キチンと親父さんのために作り直せばよい。それをしないで継体に壊されたものを、そのまま保存して後世に伝えた。完品はないですから。そういうことは言えば言えるけれども、そういう場景はわたしは想像できない。

 それだけ葛子は石が惜しかったのか。手間が惜しかったのか。そのように考えるとおかしい。そういうことに気が付いてからは、現地で何回か言いました。ところが、それはおかしいですね。そういう単なる印象批評にとどまっていた。

 ところが石像は実際には壊されている。実物が壊されているから模造品として、壊された石像を作った。そうすると壊されたのは、本当はいつなのか。そういう問題が出てくる。これも結論から言いますが壊されたのは7世紀後半。白村江の後である。誰が壊したのか、唐の軍隊。

(中略)

 だから壊されたのは7世紀後半、それから8世紀に近畿天皇家の世になる。だから石像を作り直す必要はない。このように考えると、話はひじょうに分かりやすい。継体の時にすると、どうにも分かりにくい。しかし白村江以後、あるいは8世紀という仮説に立てば、現在の事実関係がひじょうに簡明に説明できる。

(中略)

 ここに、「古老の傳へて云へらく、上妻の縣に多く篤き疾あるは、蓋しくは玆(これ)に由るか」とあります。「玆」をどう解釈しているか。岩波の注釈「磐井の君の祟りという意」を、そこに付けています。

 「玆」で、現在というのは8世紀前半以後『風土記』が作られて以後です。八女のあたりに「篤き疾」があって、手や足の折れた人・夫婦がたくさん居るというわけです。それは「玆」に依るだろうと言っています。「玆に由るか」の岩波の注釈では、いわゆる、これの祟りで、このようなことが起こったと注釈がついています。しかし考えてみてください。200~300前に手や足を折られた人が居た。負けたら折られるでしょう。しかし、その祟りで手や足を折られた人間がつぎつぎ生まれてくる。そんな祟りは聞いたことがない。祟り万能で、なんでも祟りのせいにして人間の理性的な判断を狂わせられると思っているから、そう書いてあるだけです。そんなことはありえないことです。わたしはそのように断言いたしますが、皆さんはどうですか。

 それでは、この文章はどう理解したら良いのか。とうぜん7世紀の終わりに白村江以後唐の軍隊が入って来れば、とうぜん人々は抵抗します。これで手や足は折られた。それが『風土記』が作られた8世紀前半になっても、まだ手や足は折られた人はたくさん残っている。これなら分かる。そういうたいへん分かりやすいことを、これは語っている。

 それを前のところを書き換えなければ、つごうが悪い。そんな唐の軍隊が壊したとか、(近畿)天皇家が見て見ぬふりをしたとか、それが分かるようではぐあいが悪い。書きなおせ。あの大化の改新の評制とおなじように、継体天皇の時に壊されたというように書きなおさせた。しかし部分的に書きなおしたから、ここの部分が残ってしまった。

 だから明治以後の学者が天皇協力主義で、祟りという変な注釈を付けた。だからこれを200~300年前というのはウソです。手や足を折られたのは、これはその時のつい最近のことを話として古老は語っています。これなら分かるでしょう。200~300年前に、手や足を折られた人の産んだ子が、祟りで手や足を折られたままで生まれた。そんなバカな話は世界中のどこを捜してもありえない。占領の事例もありえない。祟りという言葉にだまされている。だからわたしは、「祟り売り」という言葉を使いたい。明治以後の天皇家の学者達は「祟り売り」によって、変えて読んでいる。だから史料をそのままに読まず、明らかに内容が書きなおされている。

 ですから、これだけは間違いないと思われていた話はアウト。ですから筑後國『風土記』が「継体の反乱(磐井の乱)」があったという証拠にはならない。『古事記』『日本書紀』に合わせているだけです。

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