2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(22)
「天智紀」(11)
「白村江の戦」の戦後処理(3)
「占領軍」は何をしに来たのか(2)


 今回のテーマは既に 『九州王朝関係書物は「禁書」として処分された。』『「竺志の惣領」は占領軍総司令官 』 で取り上げている。しかしその後いろいろと新たな情報を得たので、さらに詳しく書くことにした。

 郭務悰の随行員は第1回が130余人、第2回が254人だった。この程度の人数での来国ではかえって拘束されたり、場合によっては報復のための刑死にあってしまうのではないかと思う人もいるかも知れない。しかし、彼らの背後には勝ち誇っている唐・新羅連合軍が控えている。しかも王(筑紫君薩夜麻)をはじめ幾多の将兵が捕囚されている。このような状況下で戦勝国の使者を殺害したり追い返したりできるわけがない。

 私たちは65年前にアメリカ軍による占領を体験している。総司令官マッカーサーが厚木飛行場に降り立ったのは、ポツダム宣言受託の20日後(8月30日)だった。当時の朝日新聞は、出迎えた先遣隊の幕僚・幹部将校を含めて「乗用車23台、トラック10台に分乗」して横浜のニューグランド・ホテルに向かったと報じている。1台当たり乗用車には4人、トラックには20人と多く見積もっても300人ほどの随行員である。もちろん日本周辺には主だったアメリカ艦船がやって来ていただろう。先遣隊の人数は分からないが、高級将校や実務官とわずかの護衛兵だけだったのではないだろうか。マッカーサーが8000人の占領軍をともなって東京に進駐したのは9月8日(横浜に設置されたGHQの移転は9月17日)であった。

 飛行機使って迅速に進駐できる現在と違って、唐の占領軍は帆と人力が頼りの木造船で対馬海流を乗り越えてやってこなければならない。日本の遣唐使は全部で20回ぐらいあったようだ。往復で40回の渡航として、そのうち7回も遭難している。当時はリスクの大きい航海だった。天候や海流の状況を選んでの渡航だから、郭務悰の2回目の来国が最初の来国の約1年後というのものうなずける。

 郭務悰の初回の来国は、いわば先遣隊であったろう。倭国の留守政府との戦後処理についての直談判が目的だったと思われる。帰国は本国への報告とその後の指示を仰ぐためであり、帰国したのは責任者の郭務悰のほか、わずかな人数であり、大方は続いて駐留していたにちがいない。

 郭務悰の2回目の来国は、本国から交渉結果の承認と新たな指示を得て、本格的に倭国の政治中枢を変革するための進駐であったろう。いわば、傀儡政権の樹立が目的である。

 しかし、現在のイラクやアフガニスタンと同様、倭国全体がおとなしく帰順したわけではない。唐の占領に抵抗する勢力もあった。南へ南へと追い詰められながらも、その抵抗は続いた。

 ちょっと横道に入ります。「唐の占領に抵抗する勢力」は、九州王朝の後継者という大義名分をもった、いわば亡命政府のような組織だったということを、ここで確認したいと思った。

 その抵抗の経緯のあらましは『続日本紀』の記事からうかがい知ることができる。 『九州王朝関係書物は「禁書」として処分された。』 から、その記事を年代順に再録してみる。

700(文武天皇4)年6月3日
 薩末(さつま)の比売(ひめ)・久売(くめ)・波豆(はつ)・衣評(えのこおり)の督(かみ)の衣君県(えにきみあがた)・同じく助督(すけ)の衣君弖自美(てじみ)、また肝衝(きもつき)の難波、これに従う肥人(くまひと)らが武器を持って、さきに朝廷から派遣された覔国使(くにまぎのつかい)の刑部真木(おきかべのまき)らをおどして、物を奪おうとした。そこで筑紫の惣領に勅を下して、犯罪の場合と同じように処罰させた。

702(大宝2)年8月1日
 薩摩と多褹(たね)は王化に服さず、政令に逆っていたので、兵を遣わして征討し、戸口を調査して常駐の宮人を置いた。

702(大宝2)年10月3日
 これより先、薩摩の隼人を征討する時、大宰府管内の九神社に祈祷したが、実にその神威のお蔭で、荒ぶる賊を平定することが出来た。


 私は、この最後の記事から、九州王朝の滅亡は702年と考えていた。しかし読みが浅かった。「これより先」とあるから、隼人征討はまだ続いていたのだ。

707(慶雲4)年7月17日
 山や沢に逃げ軍器をしまいかくしている者は、百日を経て自首しなければ、本来のように罪する。

708(和銅元)年1月11日
 山沢に逃げ、禁書をしまい隠して、百日経っても自首しないものは、本来のように罪する。


 「軍器」とは「軍用の器具」であり、兵器だけを指す言葉ではない。〝正規の軍隊の戦闘行動に必要な一切のもの″を指す。また「禁書」とは九州王朝の史書・公文書・詩歌集(万葉集には「古集」と呼ばれて痕跡を残している)などの重要文書である。つまり山沢に隠れていた人々は、山賊・盗賊の類ではなく、ヤマト王権に対抗する大義名分をもった正規軍の残党であった。細々ながら九州王朝の命脈はまだ続いていた。

717(養老元)年11月17日
 山野に逃亡し、兵器を隠し持ち、百日以上になる者は、大赦なく、もとの通り罪とする。


 「軍器」が単なる「兵器」に変わっている。「禁書」にもふれていない。狩り出されているのは、もはや正規軍ではなく、敗残兵である。

 以上より、708年と717年の間のどこかで九州王朝が完全に滅亡したことになる。私が見落としていた記事があった。713(和銅6)年7月の記事である。

713(和銅6)年7月
 次のように詔された。
「勲位を授けるのは、本来功績があるからである。もし功ある者を優遇しなければ、何のよって彼らを励まし勧めることができようか。今、隼人を討伐した将軍と士卒らのうち戦陣で功のあった者1280余人に、それぞれ功労に応じて勲位を授ける」


(ここでまたまた教科書の追加。古賀達也 さんの論文「続・最後の九州年号」)

 この授勲記事にはおかしな点がある。1280余人もの授勲だから、なにか大がかりな征討が行われたと予想できるが、征討記事がないのだ。702年(大宝2)8月の薩摩征討記事には9月に授勲記事あって、征討記事と授勲記事がチャンとセットになっている。

 ところで、二中暦の九州年号は「大化」で終わっているが、古賀さんは九州王朝の最後の年号は「大長」であり、「大化」のあと「大長」は9年続いたという仮説を「最後の九州年号」で論証している。

 もしそうなら、一方で近畿王朝が初めて年号(大宝)を立てているから、二つの年号が併存していたことになる。いいかえれば、九州王朝と近畿王朝が併存した時期があったことになる。細々ながら九州王朝が存続していた。そして、九州王朝の年号が終わった712年(大長9)年が九州王朝が完全に滅亡した年ということになる。古賀さんは、上の713(和銅6)年7月の記事は「大長が終わった712年頃、南九州において九州王朝と大和朝廷との一大決戦が行われたと考えざるを得ない史料痕跡」であるとし、それを次のように解読している。

 授勲と同年の和銅6年4月に、大隅国設置記事が見えることから、大和朝廷は隼人征討に勝利したことがうかがえるが、それならばその戦闘記事をカットしなければならない理由はないはずである。にもかかわらず、カットされているという史料事実は、九州王朝との関連を考えざるを得ない。

 すなわち、九州王朝を最終的に滅亡に追いやった一大決戦の記事が、九州王朝の存在そのものを隠すために意図的にカットされたとしか考えられないのである。

 そして、この授勲記事の前年が和銅5年(712)であり、わたしが提案した最後の九州年号大長の最終年、大長9年なのである。『続日本紀』からカットされた一大決戦が前年の和銅5年のこととすれば、まさにその年に九州年号は終了したのだ。

 これは偶然の一致とは思えない。大長9年に、南九州において大和朝廷は九州王朝の息の根を止めたのであり、それにより九州年号も終わったと考えざるを得ないのである。

 古賀さんの論究は、708年(「軍器」記事)と717年(「兵器」記事)との間のどこかで九州王朝が完全に滅亡したとする私の指摘とも一致する。これも「偶然の一致とは思えない」。
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