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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(21)
「天智紀」(10)
「白村江の戦」の戦後処理(2)
「占領軍」は何をしに来たのか(1)


(ヤマト王権一元論者が描く「戦後処理」の代表として、井上光貞氏の論文「大化の改新と東アジア」(岩波講座・日本歴史2」所収)を教科書に追加します。)

 郭務悰が最初に筑紫にやってきたのは664年5月だった。「天智紀」は白村江の戦いでの敗戦を663年9月としているので、その約半年後ということになる。「天智紀」には一行の人数は書かれていない。井上論文には「130余人」と書かれている。

 次の来国は665年9月である。総勢254人と「天智紀」は記録している。12月の帰国している。

 この終戦直後の2度の来国について、井上論文は次のように述べている。

 天智朝は対外関係からみると、戦後処理の時代であった。すなわち664(天智3)年、唐は劉仁願を百済の鎮将とし、旧百済国の太子扶余隆を熊津(ゆうしん)都督に任じた。これは余燼くすぶる「其(百済の)余衆を招輯」(『旧唐書』百済伝)するためと、百済・新羅の「和親」(同)を両国王家の間で誓わせるためであって、その年、扶余隆は、新羅金仁問(文武王の弟)と熊津において、「勅使」劉仁願を証人として和親を盟つた(『三国史記』羅紀)。

 そして『書紀』や「海外国記」(『善 隣国宝記』所引)によれば、この会盟の後、劉仁願は百済の郭務悰ら130余人を日本におくり、かれらは筑紫に来て「牒書」を朝廷におくった。これは唐が熊津の第一次会盟にもとづいて「百済領の安全を主眼とする修睦」を日本にはかったものと解釈されるが、朝廷はかれらを劉仁願の私使にすぎないという理由でうけとらなかった。

 ついで翌665(天智4)年、百済の熊津で第二次会盟がおこなわれ、新羅側は、文武王みずから列席し、今後、扶余隆は熊津都督として「其(百済)の祭祀を守り」、「新羅に依倚して長く与国たること」と、「各々宿憾を除き好を結び和親すること」とを誓いあい(『旧唐書』百済伝・劉仁軌伝)、唐の直轄領たる旧百済領と新羅国域との国境画定もおこなわれた(『三国史記』「文武王書」)。

 この第二次会盟についても、唐は本国からの劉徳高を首席として、前回の郭務悰ら250余人をおくり、かれらは筑紫に来て「表函」(『書紀』)を奉ったが、こんどは形式もととのい、内容も納得のいくものであったのであろう、かれらは入京を許され、12月帰国した。

 この2回の来国の目的を『「百済領の安全を主眼とする修睦」を日本にはかったものと言っている。注で池内宏という学者の論文「百済滅亡後の動乱及び唐・羅・日三国の関係」を参照していると記しているので、池内氏のこの説が「定説」となっているのだろう。岩波大系の頭注も次のように書いている。

「以下、郭務悰ら派遣の目的は、唐が百済占領政策について日本の諒承を得るためであったとする説がある。しかし朝廷は彼らを国使と認めず、筑紫大宰で処理して上京を許さなかった。詳細は海外国記に見える。」

 この注では「以下、…」と書き始めているので、全ての郭務悰の来国がそれを目的としていると言っているように読めるが、もしそうなら、何とも無茶な主張だ。その目的のために2000人からの軍隊を引き連れてきた?

 また、「朝廷はかれらを劉仁願の私使にすぎないという理由で(表函を)うけとらなかった」(井上論文)とか「朝廷は彼らを国使と認めず、筑紫大宰で処理して上京を許さなかった」(岩波大系の頭注)とか書かれている。「天智紀」の「郭務悰等を發(た)て遣す勅を宜たまふ」という文は「使者として認めずに送り返した」という意に取れるが、直接の出典は「海外国記」(『善隣国宝記』所引)としている。私には初耳の史書だが、どんな書物なのだろうか。(以下、岩波大系の補注による)

 「善隣国宝記」は1470年に瑞渓周鳳という僧が著わした外交史の本である。「海外国記」は733年に書かれたとされると同一のものだろうと推測されている。その書物は今に残っていない。周鳳が「海外国記」から引用した一文が典拠となっている。補注には
「周鳳は海外国記を直接見たわけではなく、元永元年(1118)4月の大外記中原師遠・師安・広宗・広忠・清原信俊らの勘申から引用したのである」
とあるから、いわゆる孫引きである。その引用文(漢文)を読むと、確かに「私使にすぎないという理由で(表函を)うけとらなかった」というようなことが書かれている。郭務悰の第1回目の来国時の随行員130余人というのもその引用文に見られる。

 大体学者さんたちは、国の命運をかけた戦争で大敗した国が戦勝国の使者を追い返したり、入京を許可・不許可を一方的決定することが可能だと、本気で考えているのだろうか。もしかすると唐が「百済・新羅の和親」に尽力していたことから、倭国に対しても親和的であったと推測しているのだろうか。「百済・新羅の和親」の意図は、新羅への牽制のために百済に傀儡政権を樹立することだろう。イラクやアフガニスタンにいて、アメリカ軍が駐留したままで傀儡政権を作っていることと同じようなものだ。

(教科書を追加します。前田博司さんの論文「九州王朝の落日」)

 前田論文の次のような解読こそリアルだと私は考える。

 百済の滅亡後、親「唐」的な百済国を再建するつもりの唐のプランにたいし、新羅は強硬に自国への併合につっ走り、ついには唐の軍勢を朝鮮半島から追いだしてしまうという挙にでた。唐に対抗するためには、まず背後を固めておくことが必要という立場から、新羅は西暦670年に「近畿王朝」すなわち日本国が日本列島の主権者であることを承認した。「三国史記」の新羅本紀の文武王10年11月に「倭国が国号を日本と改めた」とあるのは、このことを指している。

 新羅が日本国(近畿王権)承認したのは670年であったのに対して、唐が日本国を中心権力として公的に承認したのは則天武后が実権にぎっていた701年のことである。それまでは、唐はかたくなに倭国(九州王朝)を中心権力として扱っていた。郭務悰の来訪の相手国はあくまでも九州王朝であり、近畿王権ではない。したがって、駐留地は筑紫であり、大和や近江ではない。

 古代史の学者たちが史料として依拠している国内史書は全て九州王朝抹殺後の近畿王権の大義名分を前提に書かれているのだから、それらの史書に書かれていることをそのまま鵜呑みにしているかぎり、彼らはヤマト王権一元主義という「井」の中の「蛙」で終わるほかない。「井」のなかでは、中国や朝鮮の史書の利用も、都合のよいところだけを取り、都合の悪い部分には知らんふりをする外ない。

 では最初の2回の郭務悰の来訪は何が目的だったのだろうか。本来の史料が焚書されてしまっているのだから、戦勝国からの敗戦国への来訪と言うことをふまえて、常識的な推測をするほかない。(次回で)

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