2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(19)
「天智紀」(8)
番外編「泉涌寺の尊牌」

 図書館で遠山都美男著『古代の皇位継承』という本が目に入った。今私が扱っているテーマと重なるので借りて来た。著者はまぎれもなくヤマト王権一元主義者である。「天皇」と呼んでいいのは天武からであるという説(ただし論証抜き)を打ち出している点がヤマト王権一元主義者としては珍しいが、全体は『日本書紀』の記述だけを下敷きにした本であり、肯定的に利用できる論文はなかった。ただ「天武系皇統は実在したか」と題したプロローグに泉涌寺の尊牌をめぐる面白い議論があった。

 京都の泉涌寺(せんにゅうじ)の霊明殿には歴代天皇の位牌(または影像)が奉安されている。いわば皇室の菩提寺である。後小松天皇以後は全天皇の位牌があるが、それ以前については30数人の天皇が欠けている。天智天皇から大正天皇まで全部で52名の名が挙げられている。初めの10人を挙げると次のようになっている。(天智から数えることにする。)

第1代 天智天皇
第12代 光仁天皇
第13代 桓武天皇
第15代 嵯峨天皇
第16代 淳和天皇
第18代 文徳天皇
第19代 清和天皇
第21代 光孝天皇
第23代 醍醐天皇
第25代 村上天皇

 天武・持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙(称徳)・淳仁の位牌が欠けていることが目に付く。このことから、これらの天皇は意図的に排除された、とする説が生まれている。

 これら「天武系」の天皇の位牌が霊明殿に安置されていないのは、「天智系」と「天武系」が対立関係にあって、「天智系」が復活した後は「天武系」が意図的に排除された結果と考えたくなるのも分からない話ではない。そうであるならば、泉涌寺に「天武系」天皇の位牌がないこと自体が、「天智系」と「天武系」とが対立関係にあった何よりの証拠ということになるであろう。

 さらに、泉涌寺霊明殿に「天武系」の位牌がないのは、天智と天武が実の兄弟ではなく(天武が兄、天智が弟で異父兄弟関係にあったとする説もある)、天武が実は天皇家とは無縁の存在だったからとする極端な所説も唱えられている。

 皇室の菩提寺(ほだいじ)なのにそこに天武らの位牌がなく、いわば先祖として供養されていないのは、彼らが天皇家とは本来縁のない存在だったからというわけである。

 「天武が実は天皇家とは無縁の存在だった」という説を遠山さんは「極端な所説」というが、多元史観の立場から、私は大いに正当性のある仮説だと思っている。このことについてはそのうち詳しく論じる機会があると思う。

 さて、遠山さんはこれらの説に次のように反論している。

 しかし、このような考えが間違っていることは、霊明殿に祭られている位牌の来歴を見れば明らかであろう。

 1876(明治9)年6月、宮内省から泉涌寺に対して、
「尊牌・尊像奉護料トシテ年々金千二百円下賜候事)」
という通達があった。泉涌寺は歴代天皇の陵墓や位牌を守護してきたが、神仏分離・神道の国教化政策により陵墓は泉涌寺から切り離された。そして、今後は上記の「奉護料」を得て、歴代天皇の位牌を奉安する寺院として国の保護を受けることになったのである。

 さらに同日、
「京都府下各寺院の尊牌・尊像、悉ク皆、其ノ寺へ合併仰出サレ候」
との通達も下された。これにより、京都府下の各寺院に奉安されていた歴代天皇および門院・皇子・皇女の位牌や肖像は、特別の寺院を除き、すべて泉涌寺に合併されることになった(『泉涌寺史』による)。

 「これによって、新たに位牌が泉涌寺に安置されることになった天皇はつぎのとおり。」と言って、26名の天皇名を挙げている。この26名の中にないはずの「元明」が入っていたり、先に挙げられていた全52名にはない名があったり、ちょっといい加減なデータだけど、このあと遠山さんは「元明」も入れて論を進めている。もし元明の位牌も奉安されているのなら、天武系排除論は初めから成り立たたないことになる。しかし今、私の関心はこの論争にあるのではない。

 元明が入るのか入らないのか、真偽のほどは分からないが、泉涌寺のパンフレットには「平安京の第一代天皇桓武天皇、その御父光仁天皇、その直系の御祖天智天皇、この三天皇が霊明殿に奉祀の特にお古い御方で、歴代天皇が奉祀されてい」と書かれているらしいので、ここでは全員の名を挙げていた最初の名表を信じよう。もし元明の位牌も奉安されているとすると、これからの私の議論も反故になってしまうのだが、ともかく続けよう。

 先に記載した初めの10名の名表で、明治になって新たに加えられた天皇に「・」をつけてみた。
・第1代 天智天皇
・第12代 光仁天皇
・第13代 桓武天皇
・第15代 嵯峨天皇
・第16代 淳和天皇
・第18代 文徳天皇
第19代 清和天皇
・第21代 光孝天皇
・第23代 醍醐天皇


 近江(滋賀県)の法傳寺には「天智天皇御尊牌奉安 法傳寺」という碑が立っているという。天智の位牌は法傳寺にあったと考えていいだろう。宮内省の通達では「京都府下各寺院」とあった。遠山さんは「京都府下」を「京都とその周辺」と拡大解釈しているようだが、近江が「周辺」で奈良は「周辺」ではないのだろうか。天武系の位牌があってもおかしくないことになる。とすれば、天智の位牌だけは特別に泉涌寺に運ばれたことになる。

 さて、ここで私は「天智紀(1)」で取り上げた延喜式にある国忌の規定を思い出したのだった。

国忌
イ、天智天皇 12月3日 崇福寺
ロ、天宗高紹(光仁)天皇 12月23日 東寺
ハ、桓武天皇 3月17日 西寺

 上の泉涌寺の名表とピッタリ同じである。偶然の一致だろうか。あのときの中村さんの言論がそのまま通用する。

「光仁以前の天皇達のうち、国忌として定められている天皇は天智のみである事実を何と理解すべきであろうか。官撰の歴史である『日本書紀』には堂々と神武以下の天皇が継続しているのである。」

 以上が前回私が、「天智が近畿王朝の始祖であるという認識は天皇家に代々受け継がれているのではないか」と推測した根拠である。
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