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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(18)
「天智紀」(7)
天智称制の秘密(6)
「伊勢王とは誰か」(2)


 「白雉改元」記事に登場する人物の中で「王」と呼ばれているのは伊勢王だけである。この記事の中で見るかぎり伊勢王の地位は、天皇(実は倭国王)―皇太子―伊勢王と三番目の人物と言うことになる。皇太子はこの記事を盗用した近畿王朝の立場では中大兄皇子(天智)を示すので特別に挿入されたとも考えられる。もしそうだとすれば伊勢王は二番目となり、王位継承者の可能性もある。

 ここで山崎さんは「天智紀」の「伊勢王の死亡」記事に着目する。「伊勢王-弟王」つまり「兄―弟」がセットになっている。すぐ思い出されるのは『隋書俀国伝』が伝える多利思北弧の兄弟執政(これは古田さんの造語。山崎さんは「兄弟首長制」と呼んでいる。以下は山崎さんの用語に従うことにする。)である。

 兄弟首長制は古代の氏族国家や部族国家の一つの習俗であったようだ。「紀記」や「風土記」のなからいくつか例を引くと、神武紀の「兄猾(えうかし)―弟猾(おとうかし)」・「兄磯城(えしき)―弟磯城(おとしき)、また「播磨国風土記」に「兄太加余志-弟太加余志」がある。姉弟首長制もある。『魏志倭人伝』の「卑弥呼(ひみか)―男弟王」が有名だ。隅田八幡神社伝来の人物画像鏡(503年の鏡であることが明らかにされている)の銘文には「日十大王年―男弟王」がある。(『「男弟」を考える』で富永長三さんが「日十大王年」は女王であることを論証している。)

 以上のことをふまえて、山崎さんは、伊勢王は「白村江の戦」で捕囚になった筑紫君薩夜麻(さちやま 「天智紀」では「薩野馬」と卑語を用いて表記している。「持統紀」では「薩夜麻」。)の弟王だったのではないかという仮説をたてている。つまり、「白雉改元」記事中の天皇は実は倭国王・薩夜麻であり、伊勢王はその弟王であった、としている。

 さて、九州年号は、白雉の後、661年に白鳳に改元される。この白鳳は23年間続く。九州年号の中で白鳳の次に長いのは明要の12年。古代における改元は、現在と違って天子の代替わりの時だけに行われるわけではない。白鳳の期間の長さは異常である。なぜそのように長い期間改元がなかったのだろうか。

 この白鳳期間はヤマト王権では斉明7年から天武11年に相当する。その間には白村江の戦・筑紫君薩夜麻の虜囚と帰国・筑紫大地震・唐軍の筑紫駐留・壬申の乱などがあり、九州王朝から近畿王朝へと権力が交代していく大動乱の期間であった。山崎さんはこの大動乱時に生きた伊勢王の運命を次のように推定している。

 この白鳳の時代に白村江の敗戦(662年)があって、九州王朝大王の薩野馬は唐の捕虜となったのです。大王が戦闘に参加したのですから、留守は伊勢王が預かっていたのです。

 敗戦の報とともに大王は行方不明になってしまい、さらにこの混乱の渦中、天智の反乱がおきたのです。兄王の安否が不明のなか、王位継承権は彼にあったとしても、直ちに即位もできなかったのではないでしょうか。改元が行われていないのはこのためでしょうが、伊勢王は自他ともに認める九州王朝の大王たるべき立場の人であったと考えられます。
 多分、天智4年の初頭、天智の革命は成功し、彼は天智の手中に落ちたのです。そして「書紀」に従えば天智7年6月伊勢王と弟王は天智の手により殺害され、九州王朝はここに滅亡したのです。

 正確には、九州王朝は完全に滅亡したわけではなく、力は徹底的に削がれたが存続している。九州年号も白鳳のあと朱雀・朱鳥・大化(~704年)と続く。(最近の研究では大化のあと、大長という年号あったという。後ほど詳しく取り上げる機会があるかも知れない。)

 讖緯説の辛酉革命の革命とは王朝交替があくまでその原意です。即ち、旧王朝の滅亡と新王朝の成立のことが書かれなくては王朝交替となりません。もし、「書紀」編纂者が一度完成していた「書紀」を書き替えて、讖緯説を導入するため天智称制即位を造作したことが確実であるならば、天智称制即位は新王朝の成立を記したといえましょう。ですから、どうしても、旧王朝の滅亡を記す必要があるのです。

 斉明7年の伊勢王の死の重出記事は、天智紀では同じ月でありながら天智即位の後になっているのに、称制即位では前となっている点が注目されます。讖緯説通りの旧王朝の滅亡が書かれているといえるのです。

 このことの意味は、伊勢王こそ九州王朝の大王たるべき人物だと、「書紀」自らが告白したことになるのです。

 『日本書紀』の編纂者はなぜ讖緯説を導入しなければならなかったのか。この問は、なぜ天智称制を造作しなければならなかったのか、と言い換えてもよい。最後に山崎さんはこの問の答を次のように推測している。

 讖緯説が「書紀」に導入された背景は、万世一系の天皇制の自己矛盾によるものと考えられます。王朝にとって、王朝の始祖の名誉と栄光とは最高のものであって、言葉を尽くしてその史書に書かれること当然のことと言えましょう。

 しかし、万世一系の天皇制を偽造したことによって、近畿天皇家王朝の始祖の名誉と栄光とは架空の神武なる人に捧げられてしまったのです。

 天武天皇がこの万世一系の天皇制の構想者ですが、彼の書いた史書を「古事記」とすると、真の王朝の始祖の天智について、何も書かずに死んでしまったのです。この父天武の遣命のもとで舎人親王は「書紀」を編纂し、実際に天智紀を書いていったのです。

 ここで、舎人親王は真の王朝の始祖たる叔父の天智に、王朝の始祖としての名誉と栄光を書き得ないことにはじめて気付いたと思われるのです。ひとまず「書紀」は完成したというものの、この「書紀」では天智天皇に対して申し訳ないという気持ちから、冒涜と贖罪の念にかられ、彼はうつうつとし楽しまなかったのでしょう。

 このような苦悩の日々に、天智即位を七年間ズラすと讖緯説の辛酉革命になるというヒントが浮かび(与えられ)、この考えによって舎人親王は天智称制即位を辛酉の年に設定し、神武紀を600年ほど延ばし「書紀」を大幅に書き替え、讖緯説による革命の帝王の名誉を、秘かにではあるが、天智に捧げることをはかったのです。

 さもありなん、と思う。近畿王朝の始祖は天智であるという認識はこの新王朝成立を目の当たりにした当時の人には常識に属す。しかし九州王朝は存在しなかったことにしなければならない。天智が始祖であることを史書にはっきりと書き残すことはできない。

 さらに私は、天智が近畿王朝の始祖であるという認識は天皇家に代々受け継がれているのではないかと、推測している。
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