2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(17)
「天智紀」(6)
天智称制の秘密(5)
「伊勢王とは誰か」(1)


 「白雉改元」の記事はかなり長い。私はこれを通して読んだことがないので、この機会に読んでおこうと思った。以下の議論では多くが不要な部分だが、ついでなので全文転載しておく。長いので読み下し文は煩わしい。宇治谷孟訳の現代語版『日本書紀』(講談社学術文庫)を使う。(読みやすくするため、適当に段落を付けた。)

 白雉(はくち)元年1月1日、天子は御車で味経宮(あじふのみや)(長柄宮に近い所か)にお越しになり、拝賀の礼を行われた。この日に御車は宮に帰られた。

(管理人注:「天子は御車で」の原文は「車駕」。岩波大系は「すめらみこと」と訓じている。)

 2月9日、長門国司草壁連醜経(ながとのくにのみこともちくさかべのむらじしこぶ)が白雉(しろきぎす)をたてまつって、国造首(くにのみやつこのおびと)の一族の贅(にえ)が、
「1月9日に麻山(おのやま)で手に入れました」
といった。

 これを百済君豊璋(くだらのきみほうしょう)に尋ねられた。百済君は
「後漢の明帝(みょうだい)の永平11年に、白雉があちこちにみられたと申します」云々
といった。

 また法師たちに問われた。法師たちは答えて、
「まだ耳にせぬことで、目にも見ません。天下に罪をゆるして民の心を喜ばせられたらよいでしょう」
といった。

 道登法師(どうとうほうし)が言うのに、
「昔高麗(こま)の国で伽藍(てら)を造ろうとして、たてるべき地をくまなく探しましたところ、白鹿がゆっくり歩いているところがあって、そこに伽藍を造って、白鹿薗寺(びゃくろくおんじ)と名づけ仏法を守ったといいます。また白雀(しろきすずみ)が、ある寺の寺領で見つかり、国人はみな『休祥(よきさが)(大きな吉祥)だなあ』といいました。また大唐に遣わされた使者が、死んだ三本足の鳥(からす)を持ち帰った時も、国人はまた『めでたいしるしだ』と申しました。これらはささいなものですが、それでも祥瑞(しょうずい)といわれました。まして白雉とあればおめでたいことです」
と。

 僧旻(みん)も、
「これは休祥といって珍しいものです。私の聞きますところ、王者の徳が四方に行き渡るときに、白雉が現れるということです。また王者の祭祀が正しく行なわれ、宴会、衣服等に節度のあるときに現れる、と。また王者の行ないが清素(しずか)なときは、山に白雉が出て、また王者が仁政を行なっておられるときに現れる、と申します。周の成王(じょうおう)の時に越裳(おつじょう)氏が来て、白雉を奉って、『国の老人の言うのを聞くと、長らく大風淫雨もなく、海の波も荒れず3年になります。これは思うに聖人が国の中におられるからでしょう。何故、行って拝朝しないのだ、とのことでした。それで三ヵ国の通訳を重ねて、はるばるやって来ました』と言ったということです。また晋(しん)の武帝の咸寧(かんねい)元年に、松滋(しょうじ)県でも見られたことです。正しく吉祥(きっしょう)でありますので、天下に罪をゆるされるがよいでしょう」
といった。

 それで白雉を園に放たれた。

 15日に朝廷では元日の儀式のように、儀仗兵(ぎじょうへい)が威儀を整えた。左右大臣、百官の人々が四列に御門の外に並んだ。栗田臣飯虫(あわたのおみいいむし)ら4人に雉の輿(こし)をかつがせ、先払いをして進み、左右大臣、百官及び百済の豊璋君、その弟塞城(さいじょう)と忠勝(ちゅうしょう)、高麗の侍医毛治(もうじ)、新羅の侍学士(じがくじ 家庭教師)などがこれに従って、中庭に進んだ。三国公麻呂(みくにのきみまろ)・猪名公高見(いなのきみたかみ)・三輪君甕穂(みわのきみみかほ)・紀臣乎麻呂岐太(きのおみおまろきだ)の4人が、代って雉の輿をとり、御殿の前に進み、そこで左右大臣が輿の前をかき、伊勢王(いせのおおきみ)・三国公麻呂・倉臣小屎(くらのおみおくそ)が輿の後をかき御座の前に置いた。

 天皇は皇太子を召され、共に雉を手にとって御覧になった。皇太子は退いて再拝された。巨勢大臣(こせのおおおみ)に賀詞(よごと)を奉らせ、
「公卿百官の者どもが賀詞を奉ります。陛下がお徳をもって、平らかに天下を治められますので、ここに白雉が西の方から現れました。何とぞ陛下は千秋万歳(ちよよろずよ)にいたるまで、四方の大八島をお治め下さい。公卿・百官・あらゆる百姓も忠誠を尽して、勤めお仕えいたします」
とのべ奉り、終って再拝した。

 すると天皇は詔されて、
「聖王(ひじりのきみ)が世に出でて天下を治めるときに、天が応えてめでたいしるしを示すという。昔、西の国の君―周の成王(じょうおう)の世と、漢の明帝(みょうだい)の時とに白雉が現れた。わが国では応神天皇の世に、白い烏が宮殿に巣をつくり、仁徳天皇の時に竜馬(りゅうめ)が西に現れた。このように古くから今に至るまで、祥瑞(しょうずい)が現れて有徳の君に応えることは、その例が多い。いわゆる鳳凰(ほうおう)・麒麟(きりん)・白雉(びゃくち)・白烏(びゃくう)、こうして鳥獣から草木に至るまで、めでたいしるしとして現れるのは、皆天地の生むところのものである。英明の君がこのような祥瑞を受けられるのはもっともであるが、不肖の自分がどうしてこれを受けるに値しようか。思うにこれは専ら、自分を助けてくれる公卿・臣・連・伴造・国造らが、それぞれの誠を尽して、制度を遵奉(じゅんぽう)してくれるからである。故に公卿より百官に至るまで、清く明らかな心をもって、神祇を敬い、皆でこの吉祥を受けて、天下をいよいよ栄えさせて欲しい」
といわれた。また詔して、
「四方の諸(もろもろ)の国・郡など、天がゆだね授けられるので、自分がまとめ天下を統治している。今わが祖先の神のお治めになる長門国からめでたいしるしがあった。それ故に天下に大赦を行い、白推(はくち)元年と改元する」
といわれた。

 よって鷹を長門の地方に放って生きものを捕えることを禁じ、公卿大夫(まえつきみ)以下史(ふびと)に至るまで、位に応じて下賜品を頂いた。国司草壁連醜経をほめて、大山(だいせん)の位を授け、また多くの禄を賜わった。また長門国に三年間の調役を免除された。


 この記事が倭国史料からの盗用であることは論証するまでもないことだが、いくつかその証拠を挙げてみよう。

 百済王子豊璋の名が見えるが、豊璋は倭国へ「人質」となって来ていた王子であり、白村江の戦いのときの百済国王である。そのときまで豊璋はずっと倭国にいた。

 応神天皇の時代に白烏が宮に巣を作ったとか、仁徳天皇の時代に龍馬が西に現れたという吉祥記事が特筆されているが、『日本書紀』の両天皇紀にはそのような記事はない。これらのエピソードが『日本書紀』編纂者の創作物語だとしたら、同じエピソードを両天皇紀に挿入すしておくことなど簡単なことだろう。倭国史料の記事の天子名を入れ替えて盗用した公算が大きい。

 古賀達也さんの論文「盗用された改元記事」に決定的な論証がある。

 『日本書紀』の白雉と九州年号の白雉に2年のズレがあることは既に述べた通りであるが、それであれば九州王朝による白雉改元記事は、本来ならば孝徳紀白雉3年(652)条になければならない。そして、その白雉3年正月条には次のような不可解な記事がある。

三年の春正月の己未の朔に、元日の禮おわりて、車駕、大郡宮に幸す。正月より是の月に至るまでに、班田すること既におわりぬ。凡そ田は、長さ三十歩を段とす。十段を町とす。段ごとに租の稲一束半、町ごとに租の稲十五束。

 正月条に「正月より是の月に至るまでに」とあるのは意味不明である。「是の月」が正月でないことは当然としても、これでは何月のことかわからない。岩波の『日本書紀』頭注でも、「正月よりも云々は難解」としており、「正月の上に某月及び干支が抜けたのか。」と、いくつかの説を記している。

 この点、私は次のように考える。この記事の直後が三月条となっていることから、「正月より是の月に至るまでに」の直前に「二月条」があったのではないか。その二月条はカットされたのである。そして、そのカットされた二月条こそ、本来あるはずのない孝徳紀白雉元年(650)二月条の白雉改元記事だったのである。すなわち、孝徳紀白雉3年(652)正月条の一見不可解な記事は、『日本書紀』編者による白雉改元記事「切り張り」の痕跡だったのである。やはり、白雉改元記事は九州王朝史料からの、2年ずらしての盗用だったのだ。

 古賀さんはこの後、上の「班田記事」を検討することによって、「白雉改元」が行われた場所の考察をしている。これは後に改めて取り上げることにする。
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