2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(16)
「天智紀」(5)
天智称制の秘密(4)
甲子革令


 讖緯説は「辛酉革命」と「甲子革令」がセットになっている。天智の称制即位の年(661年 斉明7年)が「辛酉」であり、664(天智3)年が「甲子」に当たる。では664年に「革令」はあったか。この年は「白村江の戦い」で倭国が大敗北した翌々年(「白村江の戦い」の年は『日本書紀』では663年としているが、ここでは中国や朝鮮の史書に従って662年とする。)であるにもかかわらず、実に華々しい「革令」があった。この「革令」の記事は既に 「白村江の戦」 で引用している。再録する。

三年の春二月の己卯朔丁亥に、天皇、大皇弟に命じて、冠位の階名を増し換ふること、及び氏上・民部・家部等の事を宣ふ。
 其の冠は二十六階有り。大織(しき)・小職・大縫(ぶう)・小縫・大紫・小紫・大錦上・大錦中・大錦下・小錦上・小錦中・小錦下・大山上・大山中・大山下・小山上・小山中・小山下・大乙上、大乙中・大乙下・小乙上・小乙中・小乙下・大建(こん)・小建、是を二十六階とす。
 前の花を改めて錦と曰ふ。


 実はこの記事には671(天智10)年正月6日に重出と思われる記事がある。

東宮太皇弟(ひつぎのみこ)奉宣(みことのり)して、〈或本云はく、大友皇子宣命す。〉冠位・法度の事を施行(のたまひおこな)ひたまふ。天下に大赦す。〈法度・冠位の名は、具に新しき律令の載せたり。〉

 この二つの記事は双方共にいろいろと問題があり、重出記事かどうか、まだ確定的な説はない。岩波大系はその問題点を次のように述べている。

 この3年2月9日条の場合も、7年間隔であるにもかかわらず、この条と10年正月6日条との新冠位の施行には、重出の疑いが濃い。すなわち新冠位の施行にさいしては、書紀はすべてその内容を記すのが例であるのに、10年正月条のみはその内容にふれていないこと、また天智紀では称制時代にかぎり天智天皇を「皇太子」と書くのが通例であるのに、3年2月条のみは「天皇」と記していることなどの例外が認められるのみならず、10年正月以降の記事に見える冠位はそれ以前と格別変っていないからである。

 この新冠位の施行時点の問題については、重出記事と認めるか否か、認めるとすれば3年2月とすべきか10年正月とすべきかで諸説があり、10年正月条を重出記事と認めて事実を否定する場合には近江令の存否の問題にも関連してくるのである。

 7年のズレは山崎さんの称制造作説にピッタリとあっている。称制造作説をとれば10年の記事をもとに3年の記事を造作したということになる。しかし山崎さんはこの場合の7年のズレは「偶然だろう」としている。そのことをめぐって、山崎さんの論証の中に私としては納得できない点がある。私の中で全体の筋道がもう少し煮詰まるまで、山崎さんの論証には今は立ち入らないでおく。

 ところで、讖緯説は王朝交代を予言する説だから、滅亡した前王朝のことが書かれることが不可欠であるのに、「天智紀」にはそのような記事はない。しかし山崎さんは、前王朝の滅亡を暗示する記事として「伊勢王の死亡」記事を取り上げている。これも7年のズレがある重出記事である。

661(斉明7)年
六月(みなづき)に、伊勢王(いせのおほきみ)、薨(みう)せぬ。

668(天智7)年
六月に、伊勢王とその弟王(おとみこ)と、日接(しき)りて薨せぬ。〈未だ官位(つかさくらゐ)を詳(つばひらか)にせず。〉


 たったこれだけの記事からは何も明らかにできないが、「未だ官位を詳ならず」という注が気になる。

 三宅利喜男さんが『日本書紀』に現れる①「未だ詳ならず」「知らざる人なり」・②「名を闕(もら)せり」という文言を調べ上げている(「九州王朝説からみる『日本書紀』成書過程と区分の検証」)。それによると
①は29例
 内訳は〈百済記3・百済新撰1・百済本記11・百済記事8・其の他(任那・新羅・筑紫記事)6〉
②は44例(うち重複)
 臣・連が特に多い。内訳は〈(臣(オミ)18・連(ムラジ)14・造(ミヤツコ)4・君3・直(アタイ)3・首(オビト)1・法師1〉
「これら官名は出雲や倭国で早くから使用されていて、大和はのちに利用している。ここにあらわれる氏族は本貫を筑紫にもつものがほとんどで、筑紫や韓半島南部の倭地の人名である。」

 百済史料や倭国史料の人名・事跡が不消化で利用されたためと考えられるが、何事かを隠すためのおとぼけといったようなケースもあるだろう。「「未だ詳なら」ないのが官位である例は上の伊勢王の死亡記事だけである。

 伊勢王が登場している記事がもう一つある(天武紀には伊勢王が頻出するが、上の死亡記事の後のことだから当然別人である)。「孝徳紀」の白雉元年正月15日の「白雉改元」記事である。そこで伊勢王はかなり大事な役割をしている。「未だ官位を詳ならず」は大いに不審としなければならない。

(訂正:天武紀の伊勢王も同一人物でした。『「天武紀」の伊勢王(1)』をご覧下さい。)

 「白雉改元」の記事の検討に入る前に『日本書紀』に盗用されている九州年号について改めてまとめておこう。(九州年号の基本については 「日出ずる処の天子」 で取り上げている。参照してください。)

 『日本書紀』には飛び飛びに次の年号が盗用されている。

大化元年(645)~5年
白雉元年(650)~5年
朱鳥元年(686)(元年だけで終わる)

 このうち「大化」については 「偽装「大化の改新」(2)」でふれたように、50年も繰り下げて盗用している。「白雉」も正しい九州年号と2年のズレがある。正しくは「白雉元年=652年」であり、その期間は5年ではなく。660年まで9年間続く。「朱鳥」は686年~694年の8年間だが「天武紀」で使われている「朱鳥」は元年だけで終わっている。これについては「天武紀」を読むときに詳しく取り上げよう。

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