2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(13)
「天智紀」(3)
天智称制の秘密(2)

 今回はまず改めて「称制とはなにか」という問題を取り上げよう。

 岩波大系の補注によると
『称制とは、史記、呂后紀に「孝恵帝崩……太子即位為帝……太后称制」、また漢書、高后紀に「恵帝崩、太子為皇帝、年幼、太后臨朝称制」とあるように、中国では本来、天子が幼少のとき、皇太后が代って制令を行うことを意味する言葉であった』
と解説している。これを『日本書紀』が借用して「天智紀」と「持統紀」に用いた。

 しかし天智称制は「即位をしないまま政務を執る」という意味に使っていて、中国史書が言う称制とは全く違う。通説では天智称制は「唐・新羅との戦争のために即位を遅らせたため」の称制とみなしている。持統称制の方は草壁皇子が即位していないので、本来の意味に近い。

 既に「書紀」は持統紀まで一度は完成していたとする仮説にたつと、「書紀」の称制という呼び方は中国文献をみて、持統称制が最初に考えだされ、これが天智称制に転用されたのではないでしょうか。この方が、称制という呼び方が日本で消化されていく過程として合理的に思えるのです。

 これは山崎仮説の信憑性を示す例の一つと言える。

 さて、山崎さんは、『日本書紀』の前に一度完成していた史料を『「書紀」初稿』と呼んでいる。山崎さんによると、『日本書紀』の中には、『「書紀」初稿』のままの修正漏れのミス・矛盾と推定されるものがたくさん紛れ込んでいるという。山崎さんの計算によると『日本書紀』全体の「誤りと矛盾」が312ヶ所のうち、書き替えによる「誤りと矛盾」は153ヶ所で50パーセント弱になるという。それらの「誤りと矛盾」の一つが「天智紀」の編年数である。  「天智紀」は10年で編纂されている。

661(斉明7)年7月24日
 (斉明が)崩(あむあが)りましぬ。皇太子、素服たてまつり稱制す。


 この天智称制は7年続く。そして即位後4年で亡くなる。

668(天智7)年正月3日
 皇太子、即天皇位(あまつひつぎひろしめ)す。〈或本に云はく。六年の三月に、位に即きたまふ。〉
671(天智10)年12月3日
 天皇、近江宮に崩りましぬ。


 ところが「天武即位前紀」では天智の死亡記事は次のようになっている。

(天智)四年の冬十月の庚辰(十七日)に、天皇、臥痛したまひて、痛みたまふこと甚し……
十二月に天命開別天皇崩(あむあが)りましぬ。


 「天智紀」と6年のズレがある。このようなズレは「持統紀」にもある。

690(持統4)年10月22日
 軍丁筑後国の上陽郡の人大伴部博麻に詔して曰く、……天命開別天皇の三年、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元寶の児、四人、唐人の計る所を奏聞(きこえまう)さんと思欲へども、……


 筑紫君薩夜麻の帰国は「天智紀」では「三年」ではなく、「十年」である。

670(天智10)年11月10日
 対馬國司、使を筑紫大宰府に遣(まだ)して言(まう)さく、「月生(た)ちて二日に、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐、四人、唐より来たりて曰さく、・・・・・・


 ここでは7年のズレがみられる。

 岩波大系では上のようなズレが起きた原因を、『日本書紀』の編纂者の手元に「天智紀」の原史料として、即位以後の4年間だけの史料と称制期間も含めた10年間の史料の二種類があったため、と推定している。山崎さんの仮説とどちらが正しいだろうか。山崎さんは次のように論考している。

 私は天智紀は最初は4年で書かれていたが、後に10年に書き替えられたので、このような誤りが発生したと考えます。誤りの発生した経過を次のように想定します。

 まず、天武・持統紀は天智4年を引き継いで、一度は生成させたのです。ところが、この完成の後に、辛酉革命説の「書紀」への導入が決定され、天智称制なるものを天智紀に組み込み、斉明紀を短縮して、4年から10年に書き替えたのです。この時、既に完成していた二つの天皇紀(天武・持統紀)には修正を加えたのですが、その一部に修正漏れが発生してしまったのです。これが天武即位前紀の天智4年の記事なのです。

 天智称制の造作は、讖緯説による「書紀」の書き替えの第一歩です。称制即位をもって一蔀の計算の起点とし神武即位を定め、これにより各天皇紀は個々に引き延ばされ、新しい天皇紀も造作されていった ― 神功紀 ― と考えられます。

 天智紀十年と天武即位前紀の天智四年の記事との違いを、二冊の原史料によるものとするか、天智紀を書き替えたからとするかは、誠に重大な問題をうちに孕んでいるといえましょう。

 この後、山崎さんは「斉明紀」と「天智紀」に重複して出てくる全ての記事のズレを調べて、岩波大系説ではいろいろと矛盾が出てくることを論じているが、この部分は割愛する。ただ山崎さんが指摘している「常識」で、上のズレは十分説明できることを確認しておこう。

 きわめて常識的な発想ですが、即位前紀を書くに当り、前の天皇紀をみて書くのが当り前であって、わざわざ別の原史料をもってきて書くということは考えにくいのです。天智紀は一度は4年として編纂されたのです。

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