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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(9)

大嘗祭とはなにか(8)

吉本さんはまず「未開人における〈死〉と〈復活〉の概念がほとんど等質に見做されている」ことを論じている。(以下の引用文では原文で傍点が付されている文字は太字で表わした。)

 かれらにとっては〈受胎〉、〈生誕〉、〈成年〉、〈婚姻〉、〈死〉は、繰返し行われる〈死〉と〈復活〉の交替であった。個体が生理的にはじめに〈生誕〉し、生理的におわりに〈死〉をむかえるということは、〈生誕〉以前の世界と〈死〉以後の世界にたいして心的にははっきりした境界がなかった。

 このことを暗示する説話として『古事記』から「伊邪那岐(いざなぎ)命・伊邪那美(いざなみ)命」神話の「黄泉(よみじ)の国」の段と「火遠理(ほをり)命=天津日高日子(あまつひたかひこ)穗穗手見(ほほでみ)命」神話の「鵜葺草葺不合(うがやふきあへず)命」の段を取り上げている。(吉本さんは現代語に訳しているので、その吉本訳を転記する。)

伊耶那岐は死んだ伊耶那美を追って死後の世界へ行き、「おれとおまえが作った国はまだ作りおわっていないから、還ってこないか」といった。伊那那美は「もっとはやく来てくれればよかったのに、わたしは死の国の食物をたべてしまった。だが、せっかくあなたがきてくれたのだから、死の世界の神にかけあってみましょう。わたしを視ないでください」とこたえて家の中へ入ったがなかなか出てこなかったので、伊那那岐が燭をつけて入ってみると、伊耶那美の頭や、胸や、腹や、陰部や手足には蛆がわいてごろごろ鳴っていた。伊耶那岐は恐怖にかられて逃げだすと、伊那那美は「わたしに辱をかかせた」といって死の世界の醜女に追いかけさせた。

海の神の娘、豊玉姫が「じぶんは妊娠していて子を産むときになった。海で産むわけにいかないから」というので、海辺に鵜の羽で屋根を葺いて、産屋をつくった。急に腹がいたくなったので産屋に入るとて、日子穂穂出見に「他国の人間は、子を産むときは、本国の姿になって産むものだから、わたしも本の身になって産みます。わたしを見ないで下さい」といった。妙なことを云うとおもって日子が子を産むところを覗いてみると、八尋もある鰐の姿になって這いまわっていた。日子はおどろいて逃げだした。豊玉姫は恥ずかしくおもって子を産んだ後で、わたしの姿を覗かれてはずかしいから、本の国へかえると云って海坂をふさいで還ってしまった。

 この〈死後〉譚と〈生誕〉譚とはパターンがおなじで、一方は死体が腐って姐がわいてゆく場面を、一方は分娩の場面をみられて、男は驚き、女は自己の変身をみられて辱かしがるというようになっている。死後の場面も生誕の場面もおなじように疎通しており、このふたつの場面で、男が女の変身にたいして〈恐怖〉感として疎外され、女が一方では〈他界〉の、一方では「本国の形」の共同幻想の表象に変身するというパターンで同一のものである。

 男のほうが〈死〉の場面においても〈生誕〉の場面においても場面の総体からまったくはじきだされる存在となる度合は、女のほうが〈性〉を基盤とする本来的な対幻想の対象から、共同幻想の表象へと変容する度合に対応している。『古事記』のこのような説話の段階では、〈死〉も〈生誕〉も、女性が共同幻想の表象に転化することだという位相でとらえられている。いいかえれば人間の〈死〉と〈生誕〉は、〈生む〉という行為がじゃまされるかじゃまされないかというように、共同幻想の表象として同一視されていることを意味している。

 では、人間の〈死〉と〈生誕〉が、〈生む〉という行為がじゃまされるか、されないかという意味で同一視されるような共同幻想は、どのような地上的な共同利害と対応するのだろうか?

 この問に対する答をもっともよく象徴する説話として、続いて同じく『古事記』から、「天照(あまてる)大神・須佐之男(すさのを)命」神話の「五穀の起源」の段を取り上げている。

須佐男は食物を穀神である大気都(おほけつ)姫にもとめた。そこで大気都姫は、鼻や口や尻から種々の味物をとりだして料理してあげると、須佐男はその様子を覗いてみて穢いことをして食わせるとおもって大気都姫を殺害してしまった。殺された大気都姫の頭に蚕ができ、二つの目に稲種ができ、二つの耳に粟ができ、鼻に小豆が、陰部に麦が、尻に大豆ができた。神産巣日(かむむすび)がこれをとって種とした。

 この説話では、共同幻想の表象である女性が〈死〉ぬことが、農耕社会の共同利害の表象である穀物の生成と結びっけられている。共同幻想の表象に転化した女〈性〉が、〈死〉ぬという行為によって変身して穀物になることが暗示されている。女性に表象される共同幻想の〈死〉と〈復活〉とが穀物の生成に関係づけられる。

 ここまでかんがえてくると、人間の〈死〉と〈生誕〉を、〈生む〉という行為がじゃまされるかじゃまされないかのちがいとして同一視されている共同幻想が、初期の農耕社会に固有なものであることを推定することができる。

 かれらの共同の幻想にとっては、一対の男女の〈性〉的な行為が〈子〉を生むという結果をもたらすことが重要なのではない。女〈性〉だけが〈子〉を分娩するということが重要なのだ。だからこそ女〈性〉はかれらの共同幻想の象徴に変容し、女〈性〉の〈生む〉という行為が、農耕社会の共同利害の象徴である穀物の生成と同一視されるのである。

 そしてこの同一視は極限までおしつめられる可能性をはらんでいる。女〈性〉が殺害されることによって穀物の生成が促されるという『古事記』のこの説話のように。

(中略)

 『古事記』は穀物についての説話をいくつも書きとめているが、このことは、『古事記』の編者たちの権力が、はじめて穀物栽培の技術を身につけて古代村落をせきけんした勢力を始祖とかんがえたか、かれらの勢力が穀物栽培の発達した村落社会に発祥したか、あるいはかれらの始祖たちの政治的制覇が、時代的に狩猟・漁獲を主とする社会から農耕を主とする社会への転化の時期にあたっていたかのいずれかを物語っているようにおもわれる。

 吉本さんは「『古事記』の編者たちの権力」の発祥として、3通りの可能性を指摘している。さすがだと思う。吉本さんは、今はたぶん、古田さんの解読した「天孫降臨」を知っていると思う。(どこかで吉本さんと古田さんが電話で対談した記録を読んだ記憶がある。)いまならためらうことなく、その権力の発祥は「かれらの始祖たちの政治的制覇が、時代的に狩猟・漁獲を主とする社会から農耕を主とする社会への転化」したものと言い切るだろう。

 この『古事記』の説話的な本質は、石田英一郎の論文「古代メキシコの母子神」が記載している古代メキシコのトウモロコシ儀礼とよくにている。

 古代メキシコの「箒の祭」では部落から択ばれた一人の女性を穀母トシ=テテオイナンの盛装をつけさせて殺害する。そして身体の皮を剥いで穀母の息子であるトウモロコシの神に扮した若者の頭から額にかけて、彼女のももの皮をかぶせる。若者は太陽神の神像の前で〈性〉行為を象徴的に演じて懐胎し、また新たに生まれ出るとされている。

 『古事記』の説話のなかで殺害される「大気都姫」も、「箒の祭」の行事で殺害される穀母もけっして対幻想の性的な象徴ではなく、共同幻想の表象である。これらの女性は共同幻想として対幻想に固有な〈性〉的な象徴を演ずる矛盾をおかさなければならない。これは、いわば絶対的な矛盾であり、したがって自ら殺害されることによってしか演じられない役割である。自ら殺害されることによって共同幻想の地上的な表象である穀物として再生するのである。

 つぎにわたしたちは、この『古事記』の説話の本質が、より高度になったかたちを想定することができる。この想定では、一対の男女の〈性〉的な行為によって〈子〉がうまれるということが、そのままで変身をへずに共同幻想によってうけいれられ、穀物の生成と結びつけられるという段階をかんがえることができる。このばあいは〈子〉を受胎し、分娩する女性は、あくまでも対幻想の対象であり、共同幻想の象徴に転化するために〈変身〉したり、〈殺害〉されたりすることはありえない。
 「『古事記』の説話の本質が、より高度になった」土俗的な農耕祭儀として、吉本さんは能登半島に伝承されている「田の神行事」に着目する。
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