2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(8)

大嘗祭とはなにか(7)

 大嘗祭問題の核心は次の二つに絞られた。
(1)
 悠紀殿・主基殿と、主舞台がなぜ二つ用意され、同じ儀式を2回繰り返すのか。
(2)
 その悠紀殿・主基殿に寝具が用意されるのは何故か。

 古田さんの答は次のようだった。
(1)
 もともと「神ろき・神ろみ」という二人の祖先神に対する儀式だった。天皇家はこれをそのまま踏襲したが、天皇家の祖先神は天照大神だけなので祭殿が二つある意味が分からなくなってしまった。
(2)
 大嘗祭は深夜から「夜明けざる前」に行われる。祭神はまだその寝床の中で寝てる。

 「祭儀論」で吉本さんは二人の先人たちの(2)の説を紹介している。


 西郷信綱は「古代王権の神話と祭式」で、天皇はこの寝具にくるまって胎児として穀霊に化するとともに、(天照大神)の子として誕生する行為だと解している。


 折口信夫は「大嘗祭の本義」のなかで、 天皇が寝所にくるまって(物忌み)をしそのあいだに世襲天皇霊が入魂するのをまつためにひき寵もるものだと解釈している。

(1)についてはお二人ともお手上げのようだ。「大嘗祭の本義」を読んでみたが、(1)については一言も触れていない。

 では吉本さんはどのように論じているのだろうか。これから吉本さんの「祭儀論」を読んでいくことになる。まず、この論文の理解に欠かせない吉本さん特有のキーワードについて簡単に確認しておこう。
 人間が人間と関係する関係の仕方は三つの軸が考えられる。
(1) 個の自己に対する関係
(2) 個と一人の他者との関係
 最も典型的で重要な関係は男女のペアの関係であるが、親子の関係や兄弟姉妹の関係もここに入れることができる。つまりは家族の関係と言ってもよいだろう。
(3) 個が虚像としてしか関われない共同の関係
 大は国家・社会から小さなサークルのようなものまでが想定されている。

 人間が世界との関係を通して自己疎外していく幻想(観念)の世界もこの三つの軸によって把握することができる。その観念の世界を吉本さんはそれぞれ
① 自己幻想
② 対幻想
③ 共同幻想
と呼んでいる。『共同幻想論』の序文(編集者の質問に答えたもので構成されている)から引用しよう。

 全幻想領域というものの構造はどういうふうにしたらとらえられるかということなんです。どういう軸をもってくれば、全幻想領域の構造を解明する鍵がつかめるか。

 僕の考えでは、一つは共同幻想ということの問題がある。つまり共同幻想の構造という問題がある。それが国家とか法とかいうような問題になると思います。

 もう一つは、僕がそういうことばを使っているわけですけれども、対幻想、つまりペアになっている幻想ですね、そういう軸が一つある。それはいままでの概念でいえば家族論の問題であり、セックスの問題、つまり男女の関係の問題である。そういうものは大体対幻想という軸を設定すれば構造ははっきりする。

 もう一つは自己幻想、あるいは個体の幻想でもいいですけれども、自己幻想という軸を設定すればいい。芸術理論、文学理論、文学分野というのはみんなそういうところにいく。

 つまりそういう軸の内部構造と、表現された構造と、三っの軸の相互関係がどうなっているか、そういうことを解明していけば、全幻想領域の問題というものは解きうるわけだ、つまり解明できるはずだというふうになると思うんです。

 この幻想領域の三つの軸のうち、『共同幻想論』を読み解く上で最も重要なキーとなるのは〈対幻想〉である。

 対幻想も一種の共同幻想と言えるが、それは男女の性関係という自然関係である点において〈共同幻想〉とことなる。吉本さんは、それは自己を否定しながらもそのことによって自己の本質を犠牲にする必要のない唯一の(共同の)関係性であり、そこでは疎外が疎外とはならないのだ、と言う。

 対幻想は社会が成立し消滅する全過程を通じて持続する。それは、自然な共同性として、あらゆる共同幻想(国家・社会)の基底にあり続ける。『共同幻想論』において重要なキーとなる所以である。

 さて、「大嘗祭とはなにか(3)」で私は「天国は海洋部族であり、主産業は農業ではなかった。海産物や海の利を生かした交易がその主な産業だったろう。…その天国が、畑作だけでなく水田耕作も盛んであった「瑞穂の国」(筑紫)の富は垂涎の的であったろう。その富の収奪が目的で筑紫に侵略した。これが「天孫降臨」の真の姿だ。」と書いた。このことが「大嘗祭」を読み解くキーポイントになる。

 高度な農耕産業を持たなかった天国に農耕祭儀があるはずがなかった。征服部族国家・天国は、その支配を筑紫の諸被征服農耕部族国家に成立し継承されていた土俗的な農耕祭儀を収奪し、あたかも自分たちが諸農耕部族国家の本来の宗主国であるかのように位置づける一つの方法として、それを極めて抽象的な国家的儀式に昇華させた。それが大嘗祭である。

 そうだとするならば、今に伝承されてきている土俗的な農耕祭儀に大嘗祭の原型を見いだすことができよう。そしてその土俗的な農耕祭儀に底流する共同幻想の源流は『古事記』の神話の中に見いだせるだろう。吉本さんは『古事記』の神話をどのように読み解いているだろうか。
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