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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(7)

大嘗祭とはなにか(6)

 今回からの教科書は吉本隆明さんの二論文「天皇および天皇制について」(『詩的乾坤』所収)と「祭儀論」(『共同幻想論』所収)です。

 なぜ長々と「大嘗祭」にこだわっているのだろうか、という疑問が聞こえてきそうだ。本題に入る前に「大嘗祭とはなにか」という問題を考える今日的意義を確認しておきたい。


 <天皇(制)>が統一的な国家の宗教的な権威を世襲するものとして確定された時期は、たかだか千数百年以前の時期としてしかかんがえることはできない。しかし、種族の最高の巫女が共同体の最高の宗教的権威であり、その肉親の兄弟が政治的な権力を行使するという政治形態は、わが国だけでも数千年をさかのぼることができる。この時代的な落差は、そのまま<天皇(制)>権力の出自不明な正体を象徴するといっていい。

 私(たち)の知るところによれば、近畿王朝が天皇世襲を確定したのは「千数百年以前の時期」ではなく、約1300年前であることは前にも指摘した。以後は繰り返さない。

 兄弟と姉妹によって政治的権力と宗教的権力を分担して統治するという政治形態は邪馬壹国にその典型を見ることができる。

共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼(ひみか)という。鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿(ふせい)なく、男弟あり、佐(たす)けて國を治む

 邪馬壹国は3世紀中頃の倭国であるが、吉本さんは初源の国家(数千年前と想定している)はこのような政教未分離の政治形態をとっていたと考えている。

 わたしたちはかつて戦争期に、<天皇(制)>から、神話から、伝統の美学なるものからあざむかれ、敗戦によって一挙にほうりだされた体験をもった。しかし、このあざむかれかたには一定の根拠がなかったわけではない。

 その根拠のひとつは、<天皇(制)>が共同祭儀の世襲、共同祭儀の司祭としての権威をつうじて、間接的に政治的国家を統御することを本質的な方法とし、けっして直接的に政治的国家の統御にのりださなかったことの意味を巧くとらえることができなかったことである。

 またべつの根拠は、<天皇(制)>の成立以前の政治的な統治形態が、歴史的に実在した時期があったことをみぬけなかったことである。わが列島の歴史時代は数千年をさかのぼることができるのに、<天皇(制)>の歴史は千数百年をさかのぼることはできない。この数千年の空白の時代を掘りおこすことのなかに<天皇(制)>の宗教的支配の歴史を相対化すべきカギはかくされているといっていい。

 8世紀始めに近畿王朝が日本の中心権力になる前に九州に先行する中心権力・倭国があったことを古田史学がつぶさに明らかにしてきている。吉本さんの営為は縄文時代にまでさかのぼる触手を持っているが、古田さんの論考も縄文時代からさらに石器時代にまでその触手をのばしている。いずれ取り上げたいと思っている。

 この空白の時代を掘りおこすために、さしあたって必要な前提は三つかんがえられる。

ひとつは、現在も宮廷の内部でおこなわれている祭儀が徹底的に公開されることである。もうひとつは、天皇陵と称せられているものの徹底的な発掘と調査を実施することである。さらにもうひとつは、わが南島(琉球・沖縄)における歴史学的・民俗学的・考古学的な研究と調査を徹底的に推進することである。とくにこれが南島出自の研究者によって行われることである。

 本来的にいえば、わが南島が本土と合体する必須の条件は、住民白身によって<天皇(制)>以後の本土中心の歴史を、相対化すべき根拠をみずから発掘することであるといえる。この手土産なしの合体は、ただかれらの不幸をもたらすにすぎないといえる。

 この論文は沖縄の本土復帰が日程に上ってきた頃に書かれたものである。「本土中心の歴史を、相対化すべき根拠をみずから発掘すること」なしの沖縄の本土復帰は「ただかれらの不幸をもたらすにすぎない」という指摘は今も生きている。厖大な米軍基地負担を強いられた沖縄の不幸は、今普天間基地返還問題に先鋭的に現れている。

 なお、沖縄出身の研究者たちの名誉のために一言付け加えれば、当然のことながら、沖縄の「歴史学的・民俗学的・考古学的な研究と調査を徹底的に推進」している人たちがいる。例えば、1998年に那覇市で『吉本隆明に聴く―琉球弧の喚起力と「南島論」の可能性』と題するシンポジウムが開かれた。そのときのパネルディスカッションには吉本さん、赤坂憲雄さんの他に沖縄出身の方が参加されている。そのときの記録をまとめた本「琉球弧の喚起力と南島論」が手元にあるので、そこに名を連ねている沖縄出身の方々を、氏名だけになるが、紹介しておこう。上原生男さん、比嘉政夫さん、嵩元(たけもと)政秀さん、渡名喜(となき)明さん、高良勉(たからべん)さん。

(ここで、以前にも沖縄問題について上と同じような事を書いたことを思い出した。興味のある方は 「沖縄が経済的に自立することは可能か。」 をお読みください。)

 話を戻す。吉本さんが挙げている「空白の時代を掘りおこすため」の他の二つの「前提」は、現在の支配階級の頑迷固陋さが払拭されないかぎり、実現の可能性は限りなくゼロである。しかしそのうちの一つ、「宮廷の内部でおこなわれている祭儀」の公開は望めなくとも、学問的に解明することはできる。その解明がどこまで進んでいるのかを知ることが目下の主題になっていたわけだった。
 天皇陵の発掘の重要性については古田さんも繰り返し指摘している。『天皇陵の史料批判』という論文(祝詞「大嘗祭」にもふれている。HP「新古代学の扉」で読むことができます。)で前方後円墳が持っていた役割を文献的に解き明かしている。その論文のあとがきを転載しておこう。

 天皇陵問題は、日本古代史の眼晴である。しかし、その眼晴はおおわれたままになっている。そしておおわれたままにしておくことが「天皇家の尊厳」を保つもの、そのように信ぜられている。

 本当に、そうか。確かに、そうだ。もし、民衆がすべて「無知」であるならば。何事のおわしますかは知らぬまま、否、知らぬがゆえに、敬意をはらいつづける。そういう時代も確かにあった。

 しかし、いつまでも民衆が「無知」でありつづけることは不可能だ。その証拠に、今、戦前風の皇国史観を語って、誰人がよく、これを信ずるであろうか。すでに、敗戦後の、より開かれた立場、それを人間の理性が知ったからである。

 それと同じだ。「天皇陵群の存在こそ、わが国の歴史が近畿天皇家中心に展開されたことをしめす。」、今なお、多くの日本国民はこの命題を“信じて”いる。戦前の皇国史類と同じように。いわば「戦後型の皇国史観」である。

 しかし、人間の理性は知った。吉備や日向には、天皇陵の多くより「巨大」な、前方後円墳の存在することを。この一点の認識を起点にして、新たな疑問に立ち向うとき、ついに、先の命題は“保持”しつづけることが不可能なのである。

 もしなお、これを疑う人ありとすれば、幸いにも、無上の方法がある。他にない。「天皇陵の学術的発掘調査」がこれだ。もし、「天皇」という象徴、その尊貴の地位が、日本国民の「無知」に依拠するのではなく、日本国民の「理性」に依拠しようとするならば、これ以外の方法はない。

 もしこのような、わたしの所論に対して、あるいは怒り心頭に発する人ありとしても、わたしはこれをよく理解できる。なぜなら、「国家の公定の歴史」に関する問題は、ただに人間の理性にかかわるものではなく、かえって時として、人間の感情や情念にもとづくものだからである。

 しかしながら、いかなる国家の権力も、個人の暴力も、しょせん亡ぼしうるのは、人問の生命のごときものにすぎず、決して真理そのものを亡ぼすこと、それは不可能なのだ。わたしはそれを信じ、ここに本稿を草し終ったのである。

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