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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(6)

大嘗祭とはなにか(5)

(長い横道でした。本道に戻ります。)

 大嘗祭という儀式の中核については今でも不明な部分がある。その儀式に直接関わるごく一部の者にしかみることができない。たださまざまな史料・史実から推測することでその輪郭を知ることはできる。まず史料を読んでみよう。

 祝詞「大嘗祭」を岩波古典文学大系より転載する。

大嘗(おほにえ)の祭

「集侍(うごな)はれる神主(かむぬし)・祝部(はふりべ)等(ら)、諸(もろもろ)、聞(きこ)しめせ」と宣(の)る。

「高天の原に神留(かむづま)ります、皇睦(すめむつ)神ろき・神ろみの命もちて、天つ社(やしろ)・國つ社と敷きませる、皇神(すめがみ)等(たち)の前に白さく、今年十一月(しもつき)の中の卯(う)の日に、天つ御食(みけ)の長御食(ながみけ)の遠御食(とほみけ)と、皇御孫(すめみま)の命の大嘗(おほにへ)聞しめさむための故に、皇神等、あひうづのひまつりて、堅磐(かきは)に常磐(ときは)に齋(いは)ひまつり、茂(いか)し御世に幸(さき)はへまつらむによりてし、千秋(ちあき)の五百秋(いほあき)に平らけく安らけく聞しめして、豐の明りに明り坐まさむ皇御孫の命のうづの幣帛(みてぐら)を、明るたへ・照るたへ・和(にぎ)たへ・荒たへに備へまつりて、朝日の豐榮(とよさか)登(のぼ)りに稱辭(たたへごと)竟(を)へまつらくを、諸聞しめせ」と宣る。

「事別(ことわ)きて、忌部の弱肩(よわかた)に太襁(ふとだすき)取り挂(か)けて、持ち齋(ゆま)はり仕へまつれる幣帛を、神主・祝部等請(う)けたまはりて、事落ちず捧げ持ちて奉(たてまつ)れ」と宣る。


 農耕儀礼であることは分かるが、その儀式が具体的にどのような形式で行われるのかはこの祝詞からは分からない。しかしもう一つ史料がある。近衛天皇の時の大嘗祭(1142年)の時に唱えられた「天神(あまつかみ)の壽詞(よごと)」(「中臣(なかとみ)の壽詞」とも言う)を藤原頼長がその日記『台記』の別記「起居注」に書き残していた。これも岩波古典文学大系より転載する。

「現(あき)つ御神(みかみ)と大八嶋(おほやしま)國所しろしめす大倭根子(おほやまとねこ)天皇(すめらみこと)が御前(みまえ)に、天つ神(あまつかみ)の壽詞を稱辭竟(たたへごと)定めまつらく」申す。

「高天の原に神留ります皇親神ろぎ神ろみの命をちて、八百萬(やほよろず)の神(かみ)等(たち)を集(かむつど)へたまひて、『皇孫尊は、高天の原に事始めて、豐葦原の瑞の國を安國と平けく所知ろしめして、天つ日嗣(ひつぎ)の天つ高御座(たかみくら)に御坐(おほま)しまして、天つ御膳(みけ)の長御膳の遠御膳と、千秋(ちあき)の五百秋(いほあき)に、瑞穂を平けく安けく、齋庭(ゆには)に所知ろしめせ』と、事依(ことよ)さしまつりて、天降(あまくだ)しましし後(のち)に、中臣(なかとみ)の遠(とほ)つ祖(おや)天のこやねの命、皇御孫の尊の御前(みまえ)に仕へまつりて、天のおし雲ねの命を天の二上(ふたがみ)に上(のぼ)せまつりて、神ろぎ神ろみの命の前(みまへ)に受けたまはり申(まを)ししに、『皇御孫の尊の御膳(みけ)つ水は、顕(うつ)し國の水に天つ水を加えて奉(たてまつ)らむと申せ』と事教(ことの)りたまひしによりて、天のおし雲ね神、天の浮雲に乗りて、天の二上に上(のぼ)りまして、神ろき・神ろみの命の前(みまへ)に申せば、天の玉櫛(たまぐし)を事依(ことよ)さしまつりて、『この玉櫛を刺し立てて、夕日より朝日の照るに至るまで、天つ詔(のり)との太詔(ふとのり)と言(ごと)をもちて告(の)れ。かく告らば、まちは弱韮(わかひる)にゆつ五百(いほ)篁(たかむら)生(お)ひ出でむ、その下(しも)より天(あま)の八井(やゐ)出でむ。こを持ちて、天つ水と聞しめせ』と事依さしまつりき。

かく依さしまつりしまにまにきこしめす齋庭の瑞穂を、四國の卜部等、太兆(ふとまに)の卜事(うらごと)をもちて仕(つか)へまつりて、悠紀(ゆき)に近江(あふみ)の國の野洲(やす)、主基(すき)に丹波(たには)の國の氷上郡(ひがみ)を齋(いは)ひ定めて、物部(もののべ)の人等(ひとども)、酒造兒(さかつこ)・酒波(さかなみ)・粉走(こばしり)・灰焼(はひやき)・薪採(かまぎこり)・相作(あひづくり)・稲(いな)の實(み)の公等(きみら)、大嘗會(おほにへ)の齋庭(ゆには)に持ち齋(ゆま)はり参(ま)ゐ来て、今年の十一月(しもつき)の中つ卯(う)の日に、ゆしり・いつしりもち、恐(かしこ)み恐みも清(きままはりに仕(つか)へまつり、月の内に日時(ひとき)を撰(えら)び定めて、献(たてまつ)る悠紀・主基の黒酒(くろき)・白酒(しろき)の大御酒(おほみき)を、大倭根子天皇が天つ御膳の長御膳の遠御膳と、汁(しる)にも實(み)にも、赤丹(あかに)の穂にも聞(きこ)しめして、豐の明りに明り御坐(おほま)して、天つ神の壽詞を、天つ社・國つ社と稱辭(たたへごと)定めまつる皇神等(たち)も、千秋の五百秋の相嘗(あひにへ)にあひうづのひまつり、堅磐(かきは)の常磐(ときは)に齋(いは)ひまつりて、茂(いか)し御世(みよ)に榮えしめまつり、康治(かうぢの)元(はぢめ)の年より始めて、天地(あめつち)月日と共に照し明(あか)らし御坐(おほま)さむ事に、本末(もとすゑ)傾(かたぶ)かず茂(いか)し槍(ほこ)の中執(なかと)り持ちて仕(つか)へまつる、中臣の祭主(いはひぬし)正四(おほきよつ)の位(くらゐ)の上(かみ)にして神祇の(かむづかさ)の大副(おおきたすけ)を行ふ大中臣の朝臣(あそみ)清親(きよちか)、壽詞を稱辭(たたへごと)を定めまつらく」と申す。

また申さく、「天皇(すめら)が朝廷(みかど)に仕へ奉る親王(みこ)等(たち)・諸王(おほきみたち)・諸臣(まへつきみたち)・百(もも)の官人等(つかさびとたち)・天の下(した)四方(よも)の國の百姓(おほみたから)、諸諸(もろもろ)集侍(うごな)はりて、見(み)たべ、尊(たふと)みたべ、歓(よろこ)びたべ、聞きたべ、天皇が朝廷に、茂(いか)し世(みよ)に、やくはえの如く立ち榮え仕へまつるべき壽(よごと)を聞(きこ)しめせと、恐(かしこ)み恐みも申(まを)したまはく」と申す。


 祝詞「大祓」と同様、祝詞「大嘗祭」も「天神壽詞」も近畿王朝が作ったものではあり得ない。固有名詞(祭主の名前や新穀を提供する国名)はそのつど変わるが、全体は古来から伝わるものを継承している。祝詞・壽詞の内容は要するに「天孫降臨したニニギの命が始めて行った大嘗祭を大倭根子天皇(近畿天皇家)が行うので、忌部・神主・祝部たちは皆協力せよ」と言っているのが、この壽詞からは大嘗祭の具体的形がある程度読み取れる。

 悠紀・主基という二つの斎場を設け、それぞれに神供、神酒などを用意する。神饌を神に供するということだが、それを大嘗祭の儀式においては天皇が食する。神饌を神と共食することによって、神霊をじぶんの中に体得するというような宗教的な意味あいの儀式であることが分かる。またそれが農耕民に対して「天皇こそがお前達の首長である」という宣言ともなり、皇位継承の正当性の主張ともなっている。

 大嘗祭の中心儀式は深夜行われる。上の史料からは知ることができないが、悠紀殿・主基殿には布団のような物が敷かれているという。この殿内での儀式は秘儀とされていて、その寝床を用いて何をするのかは不明で実態はつかめていない。そのためいろいろな説が出てくる。これについては後ほど取り上げよう。

 この祝詞と壽詞には祝詞「大祓」と同じく「高天の原に神留ります、皇睦神ろき・神ろみの命もちて」という決まり文句が出てくる。「神ろき・神ろみ」という男女二神が「天つ国」の祖先神(天つ神)であると宣言している。壽詞では「神ろぎ神ろみの命をちて、八百萬の神等を神集へたまひて」とあるから、「神ろき・神ろみ」は「天つ八百萬の神」の統率神ということになる。

 「天つ神」は「天神」(てんじん)とも読む。「天神さま」=「菅原道真」と流布されているが、平安時代の人が「天つ神」であるわけがない。「天神」は『古事記』のイザナギ・イザナミの説話に出てくる。

天つ神の諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊邪那岐命、伊邪那美命、二柱の神に、「この多陀用幣流(ただよえる)國を修め理(つく)り固(かた)め成せ。」と詔(の)りて…

 続いてイザナギ・イザナミは「国生み」をする。始めに「ヒルコ」を生んで失敗する。そのとき「天神」に教えを乞うことによってようやく成功する。この「天神」こそ「天つ国」の祖先神である。

 つまり「天神」とは、イザナギ・イザナミ以前の、「遠い誇るべき祖先神」である。ニニギの祖母・天照大神や、天照大神と並び称される高木神たちも「天神の子孫」である。ニニギたちの故国・対馬に「天神神社」がある。たいへん古い神社である。「天神神社」でその古色蒼然としたたたずまいを見ることができる。そのサイトによると「御祭神 天津八十萬神」「創祀年代は不詳」とある。

 さて、大嘗祭では悠紀殿と主基殿で同じことを2回繰り返す。なぜ同じことを2回行うのか、どの学者もうまく説明できなくて困っているそうだ。これを古田さんは次のように説いている。(講演録「大嘗祭と九州王朝の系図」より)

 さっきのニニギの祝詞、神ろき・神ろみ(皇親ですよ)の命(みこと)の命令である、とこういっているでしょう。二人ですよ。天神は神ろき・神ろみの二人ですよ。だから神ろきと神ろみの二つの御殿がいるんですよ。当たり前でしょう。

 それを現在、近畿天皇家になって天照一本にしぼってしまったわけです。だから天皇が向かう神様は天照大神だけでしょう。二つあるのが浮き上がってしまってるんですね。形だけ神ろき・神ろみの九州王朝の天神が残っているんです。そして肝心のご本体は天神を天照に替えたわけです。分家らしく替えたんですが、そのため二つの寝床の説明が不可能になってしまった。

 学者も近畿天皇一元主義では全然あれが説明できない、ということに気がつきましたらね。やっぱり九州王朝という仮説に立たなければ、ま、仮説でも中国の同時代史料に基づく立場、常識ですからね、それに立たなければ『日本書紀』が読めない。なぜ持統で終わっているかも説明できない。なぜ天智以前に大嘗祭の記事がないかも説明できない。同様に二十世紀に行なわれた大嘗祭で、なぜ同じものが二つあるかが説明できなかったわけです。

 さて、悠紀殿と主基殿には寝床が用意されている。これはなぜなのだろうか。これについては次のように述べている。

 しかも、もう一つ、なぜ寝床があるのかという間題。あれでセックスやるんだとか、処女を何とかするんだとかいって、よろこんでいる人もいますけれども、大ウソだと思いますよ。

 皆さん、多利思北孤(たりしほこ)を思い出してください、日出ずる処の天子の。夜いまだ明けざるに多利思北孤は宗教的な行事を行なう。夜が明けたら弟に政治をゆだねる、ということがあったでしょう。つまり宗教的祭祀は夜明けざる前の仕事なんですよ。だから神様はまだベッドに寝てるわけですよ。そう考えたら何も不思議ないんですね。

 それを日出ずる処の天子は聖徳太子だという無茶をやったもんですから、もう自分たちのやっていることは意味不明になっている。宮内庁の人たちも御用学者も、そろって説明不能の状況になっているわけです。

 古田さんの主張に関わらず、悠紀殿・主基殿での儀式がセックスに関係するという説を私は信憑性のある説と考えている。私が信憑性があると言うのは吉本さんの理論である。もちろん、他の論者はいざしらず、吉本さんはそれを「よろこんでいる」わけではない。ここでも、征服国家は被征服国家の「共同幻想」を取り込むかあるいは自らのそれと交換するなどして、支配を貫徹するという観点がキーポイントになる。次回詳論しよう。
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