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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(5)

大嘗祭とはなにか(4)

天つ宮

 ここまでの考察から「天つ宮」が「天国(対馬・壱岐を中心とする領域)の宮殿」を意味することは明らかだ。対馬・壱岐にはなんとそれぞれ138・164もの神社がある。「古式ゆたかなたたずまいの神社」として古田さんは対馬の「海神(わたつみ)神社」「和多都美(わたつみ)神社」「太祝詞(ふとのりと)神社」を挙げている。「和多都美」という表音漢字での表記はその神社の建立年代の古さを示しているし、いまテーマにしている「祝詞」を神社名としている神社があるのも興味深い。対馬・壱岐は「天つ宮」の故地としていかにもふさわしい。(下の写真はネットから拝借しました。ありがとうございます。)

watatumijinjya2.jpg 「海神神社」

watatumijinjya.jpg 「和多都美神社」

「太祝詞神社」

大中臣

 『古事記』の「天孫降臨」記事の冒頭は次のようである。

爾(ここ)に天兒屋(あねのこや)命、布刀玉(ふとだま)命、天宇受賣(あめのうずめ)命、伊斯許理度賣(いしこりどめ)命、玉祖(たまのおや)命、并(あわ)せて五伴緒(いつとものを)を支(わ)ち加えて天降すなり。

 「ニニギ」に五人の人物がつきそって行ったと言っている。その筆頭の人物について『古事記』は「天兒屋命は、中臣連等の祖」と注記している。

 古田さんは「中臣(なかとみ)」を「ナカ(地名)+ト(戸あるいは門)+ミ(神あるいは海)」と分析している。そして、博多湾岸の那珂(なか)川との同地名音に着目して、筑紫での中臣氏の根拠地を示唆している。

 さらに、福岡市の田島八幡神社に伝わる祭祀(筑紫舞)の「天孫降臨」の場面に登場する主要人物「中富親王」との関連を指摘している。

中富親王、細姫命(うずめのみこと)を呼ぶ。「細姫命よ、お在(あ)しまする」
細姫命「中富親王の御声として、細姫命やあれ応(おお)せ候は、抑(そも)何の御為(おんため)にて候」


 なんと一緒に天下った「宇受賣(うずめ)命」が登場する。「中富氏」=「中臣氏」である。福岡市周辺には現在も「中富」姓が多く存在するという。堀内昭彦という方が電話帳調査をしている。(1979年2~3月)
中富姓分布(福岡県)
福岡市 86
筑後市 41
北九州市19
久留米市11
粕屋郡 10
宗像市  9
田川郡  7
大牟田市 7

 このようなところにも、神話を史実として扱う古田史学の信憑性が如実に表れてくる。またこれは後に取り上げることになる「中臣鎌足」の出自をも示唆している。

根の國・底の國

 「根の国」は「記紀」にも現れる。『古事記』「スサノオノ命の涕泣」の段に

僕(あ)妣(はは)の國根の堅州國に罷(まか)らむと欲(おも)ふ。故、哭(な)くなり。」

とある。また『日本書紀』第7段(スサノオの追放)の一書・第三では「底根の国」と表記している。

 この後、スサノオは出雲に「天」降(あまくだ)る。

(須佐之男命)故、避追(やら)はえて、出雲國の肥の河上、名は鳥髮という地(ところ)に降る。(『古事記』「須佐之男命の大蛇退治)

 『日本書紀』では「天より出雲國の簸(ひ)の川上に降り至る。」とある。

 「根の国」「底根の国」は"出雲そのもの"と見える文言もあるが、少なくとも出雲の方にあることが分かる。

四國の卜部等

 四つ国はともに卜部をだす国である。どこか。これについての古田さんの読解も、"伊豆・壱岐・対馬、もう一国は不明。(対馬を上県・下県二つに分けて四国とする説もある)"という「定説」を覆している。実はこの四国は祝詞にはっきりと書かれている。

速川の瀬―瀬織つひめ
八百會 ―速開つひめ
氣吹戸 ―氣吹戸主
根の國・底の國―速さすらひめ

 もちろんここで「国」というのは「国家」のことではない。四つの領域とそこでの主宰神が示されているのだ。神があれば当然その神を祭る神聖な司祭者(卜部)がいる。それが「四国の卜部」である。詳しい論証を省くが、この場合の「卜部」は国譲りを強要された「出雲王朝」下の成立した「部」の一つである。「天孫降臨」にともなって九州王朝に編入された司祭者たちであった。

 以上より、「四國」は"筑紫から出雲へ"の通路上あるいは通路近辺(日本海沿い、九州と本州の北岸部)に存在する国(領域)という事が出来る。この祝詞が舞台としている全領域がはっきりとした。

 最後にこの論考の古田さん自身による「総括」を転載しておこう。

第一
 この「大祓」の祝詞は、弥生時代の前半期、「天孫降臨」当時、降臨地たる筑紫(筑前中城。糸島と博多湾岸の間の高祖山連峯近辺)において作られた。

第二
 その目的は、この征服戦争ないし権力交替争乱のさい、生じたさまざまの凶事、ことに新支配者側(ニニギノミコト側)の加害による「罪」を、一掃(帳消し)するためであった。そのための「宗教行為」としての「大祓」だったのである。

第三
 この文中の眼晴の句、「大倭」の二字は、本来の意義「オホチクシ」を意味した。これを、のちの近畿天皇家が〝換骨奪胎″して、「オホヤマト」と唱えつづけることとなったのである。

第四
 そのため、この文面のもつ、生き生きした原初性は見失われ、〝一般的″〝普遍的″〝観念的″理解において、ここにしめされた「罪」、また「大祓」の意義が解されつづけて、今日に至っているのである。

第五
 旧来の「大和中心主義」の観念的理解と、わたしの新たに提起した「筑紫中心」の実証的理解、それはいずれも、「祝詞」という史料を理解する上の「仮説」だ。その「二つの仮説」のうち、いずれが是か、いずれが否か。それを決するものこそ、対馬海流をめぐる「海流の論理」だ。

 〝筑紫から出雲へ″ ― このコースは、いかにも自然。自然そのものだ。

 これに対し、「大和」を原点にしたら、― どうか。大和川を下り、大阪湾に出、瀬戸内海に出、関門海峡をめぐって、はるばると出雲に流れ着く。こんなルートを〝想像する″論者があろうか。あるとすればそれは、あまりにも迂路、あまりにも恣意なのではあるまいか。

 もし、「然らず。」と、なお主張する論者は、この「大祓の祝詞」を封じこめたガラスびんを大阪湾に何十個か、投下してみれば、よい。果して、その何割が、かの出雲近辺に漂着するであろうか。

 これに対して、筑紫の北辺、玄海灘にこれを投じてみよ、その大半は〝出雲方面″へと流れゆき、あるいはその沖合いに、あるいはその岸辺に漂流し、ときあって漂着することであろう。少なくとも、そのように自然に〝イメージ″できるからこそ、この祝詞の「道行き文」はつづられた。それは、〝のべ手″と〝聞き手″に共通した〝イメージ″だ。そしてこの一点こそ、「生きた祝詞の誕生」を語るさい、この上なく重要な、核心をなす一点なのである。

 祝詞は弥生前半期の人たちの言葉を今に伝える貴重な史料である。ヤマト王権一元主義という虚偽意識(イデオロギー)を払拭したところから真実が始まる。

 最後にもう一つ、「記紀」に描かれているヤマト王権の初期大王たちの長い寿命(例えば神武は137歳)や『魏志倭人伝』伝える倭人の平均寿命(90歳ぐらい)は従来は「誇張された記述」(ウソ)として還り見られていなかった。これに対して、古代には「二倍暦」が使われていた時期があったことを始めて指摘したのも古田さんだった。「二倍暦」だと1年に2度年をとる。今の年齢でいうと137歳は68~68歳、90歳は45歳となり、誇張でもなんでもない。実にリアルだ。

 今はあまり行われていないようだが、私たちは年末には隣近所一斉に大掃除をやる習慣があった。私の母は古いしきたりをよく守った人だった。大掃除が済んだ後、神棚・台所・厠の神社からのお札を張り替えていた。一種の「お祓い」だったのだろうと思う。

 ところで祝詞「六月の大祓」には問わず語りに語っている面白い事実がある。祝詞の表題に〔十二月(しはす)はこれに准(なら)へ〕という注意書きがあった。つまりその祝詞が作られた頃(弥生前期)は年に2度「大祓」をしていた。「大祓」というのは単なる「お祓い」と違って、1年間の「罪障」を総括をする重要な神事であった。それを1年に2度やっていたとは!? これはその頃は「二倍暦」を用いていた証拠ではないか。
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