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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(2)

大嘗祭とは何か(1)

 大嘗祭は実質的な践祚を示す大事な儀式である。裕仁から明仁への皇位継承の時にも、この時代錯誤の大嘗祭がチャンと行われている。しかしここには単に時代錯誤と一蹴してしまえない問題が孕まれている。そこには天皇制が今日にまで生き延びてきた秘密がある。大きく横道に逸れる嫌いがあるが、しばらくこの問題を学習していこうと思う。

〈以下は吉本隆明さんの論考「天皇および天皇制について」(『詩的乾坤』所収)・「宗教としての天皇制」「敗北の構造」(『敗北の構造』所収)・「祭儀論」(『共同幻想論』所収)が教科書です。〉

「敗北の構造」は講演録であり、その講演は次のように始まっている。

 只今、ご紹介にあずかりました吉本です。今日は、ひとつ「敗北の構造」ということで、お話したいとおもいます。あんまり景気のいい話じゃないので、がっかりでしょうけれども、只今、ぼくが仕事としてやっていることがそういうことだもんですから、まあそういうことでやりたいと思います。

 ぼくがやっているのは現代の敗北ということじゃなくて、大変大昔の敗北ということなんです。皆さんのほうではそういうことはあんまり厳密でないかもしれないですけれども、日本の統一国家というものが成立した時期を千数百年前というふうに考えまして、千数百年前以前に、まあ小さな島ですけれども、小さな島に人間がいなかったかというと、そういうことでないので、そこではやはり、わかりやすくいうと、現代のなになに郡というようなくらいの大きさ程度の国家というものが、群立状態で存在したというふうにいうことができます。

 われわれが普通、日本民族という場合には、統一国家が成立した以降の、いわば文化的、あるいは言語的に統一性をもった、そういうものを想定しているわけですけれども、しかし、日本民族という場合と、日本人という場合とはまるでちがうので、日本人という場合には、すでに日本国家成立以前に、群立した多数の国家が存在していたというふうに考えることができます。

 そこで、天皇制権力が、その群立していた国家を、武力的にあるいは国家的に制圧して統一国家というものを成立させたわけです。

 古田さんの「邪馬台国はなかった」・「失われた九州王朝」の出版はそれぞれ1971年・1973年だった。吉本さんのこの講演は1970年に行われているから、この時点では吉本さんはまだ「古田史学」はご存じなかったと思われる。「日本の統一国家」として近畿王朝を想定しているのも、その「日本の統一国家」が成立した時期を「千数百年前」と考えている(古墳時代を想定しているようだ)のも、やむを得ないことである。私(たち)が知っている「古田史学」と齟齬する部分はそれなりに読み替えていくことにする。しかし吉本さんの論考は、さすがにヤマト一元主義の陥穽には落ち入ってはいないので、その本質的な部分に誤りはない。

 さて、近畿王朝に先行する九州王朝は統一王朝ではない。「群立した多数の国家」の中心権力という意味での「王朝」である。その初源の姿は魏志倭人伝(邪馬壹国)によく現れている。「群立した多数の国家」の地域的範囲は「倭の五王」の頃には九州から関東地方ぐらいまでに広がっていたようだ。

 「群立した多数の国家」の中心権力として「日本国」が九州王朝に取って代わったのは701年。この段階ではまだ「日本の統一国家」とは言えない。厳密に言うと、阿弖流爲(アテルイ)が坂上田村麻呂に降伏して、蝦夷が近畿王朝に完全に帰属したのは802年のことだから、「日本の統一国家」が成立した時期は「1200年ほど前」と言うべきだろう。

 その場合の天皇制権力、あるいは天皇制部族、あるいは種族かしりませんけれども、そういうものはどこの出身だということは、全く現在でもはっきり判りません。朝鮮から、つまり大陸から朝鮮を経由してきたというふうな説もありますし、あるいは、南朝鮮と文化的には近縁関係にあった北九州における豪族が、だんだん中央に進出してきて統一国家を成立せしめたというような考え方もあります。またそれとは別に畿内、つまり現在の京都とか奈良とか大阪とかですけれども、畿内における豪族が、勢力を拡張して統一国家を成立せしめたというような考え方もあります。いずれにしても決定的な考え方というのはないわけで、その三つのうちどれかに該当するでしょうけれども、素姓がわからない勢力が、とにかく統一国家を成立せしめたわけです。

 このあたりの事情も古田さんによってかなり解明されている。九州王朝は対馬・壱岐などを根拠とする部族(アマ氏)が「天孫降臨」して始まった部族国家である。近畿王朝はその九州王朝の分流(分国)であった。
「真説・古代史3」 を参照してください。)

 では九州王朝の始祖であるアマ氏の出自は? この問いはほとんど意味がない。部族国家以前の「氏族的―部族的」共同体は長期にわたって、それこそ東アジア全体を舞台に、政治的・社会的・経済的・文化的にさまざまな交流や抗争を繰り返してきただろうから。そして当然、その過程で血の混合も進んでいっただろうから。そういう意味では東アジアの氏族・部族は全て出自を同じくするといってよいのではないか。 (部族国家については 「<部族国家>とは何か。」 を参照してください。)

 しかし、わたしたちが日本人という概念を使う場合には、それをちっとも指していないのであって、日本人という概念で成立している概念は、それ以前に、郡単位くらいの国家が群立していたというような考え方からいけば、まあ少くとも三千年から四千年はさかのぼれるわけで、それ以前に人がいたかどうかというようなことを問うならば、それは何十万年前にまでさかのぼることができるわけです。

 そうしますと、ここで、何が敗北したのかというと、天皇制権力自体が、統一国家をせしめる以前に存在した、そういう日本の全大衆が総敗北したというふうに考えることができます。それでは、その総敗北した時の敗北の仕方は、どういうふうにしてなっていたかを初めにお話します。

 いままでの議論から、「天皇制権力自体が、統一国家をせしめる以前」という文章は当然「九州王朝(ニニギノミコト)が天孫降臨した以前」と読み替えねばならない。以下、いちいち断らないが、そのような読み替えをしながら読んでいくことにする。

 統一国家以前に、郡単位程度の国家が成立しており、それぞれの内部で、国家としての法権力というものが成立して存在していました。そういう小国家が、群立していたというような状態が考えられます。それに対して天皇制権力は、どういう出自かわかりませんけれども、それをどういうふうにして統合していったかというようなことが問題になるわけです。つまり、統合の過程における、国家としての本質構造は、どういうふうになっているのかということが問題になるわけですけれども、それには大体二つのことが考えられます。

 吉本さんが「国家の本質」というとき、それは「共同幻想」を意味している。以下、征服王朝(天孫降臨した王朝)によって支配を貫徹するための「共同幻想」がどのように構成されていくかという「国家の本質」論が語られる。
 一つは、天皇制権力が統一国家を成立せしめる以前に存在した法的権力あるいは法的国家の法のうち、都合のいい法を天皇制権力がみずからの法として吸いあげ、その結果、それ以前に存在していた小さな群立国家は、国家としての統一性のある部分を、徹底的に欠いてしまう状態が一般に考えられます。だから、ある一つの小さな共同体、あるいは国家に、おおいかぶさるように統一国家が成立したとき、その統一国家は、以前に存在していた群立状態の国家または、共同体の法的規範を、自らの規範として吸い上げることによって、以前に存在していた国家または、共同体は、法的統一性を失っていく敗北の仕方というものが一つ考えられます。

 もう一つ考えられることは、こういうことなんです。その状態で存在していた群立国家における法、宗教、それから風俗、習慣、そういうもの全てを含めまして、これを共同幻想と呼びますと、その共同幻想と、それから統一国家を成立せしめた勢力の共同幻想を、交換するということなんです。つまり互いに交換したうえで、めいめいが混合してしまうということが、統合の一つの形態だということができます。だから、以前に存在したであろう法律とか宗教的儀礼、それから群立国家で支配的であったろう風俗、習慣というようなもの、あるいは不分律とか、掟てとか、あるいは村落の村内法、そういうようなものすべてと、元来そこの上におおいかぶさってきたその統一国家勢力におけるそういう習慣、風俗あるいは保存している宗教あるいは法概念、そういうようなものをそこで交換するわけです。これは別に等価交換じゃないわけですけれども、とにかく交換するということ、それで交換することによって、統一国家を成立せしめた勢力というものが、それ以前からあたかも存在したが如くに国家というものを、国家権力というものを制定することができるということです。それと同時に逆に交換された群立国家における首長、大衆というものが、今度は支配的に統一国家を成立せしめた勢力の法あるいは宗教、習慣っていうものを、あたかも自らの習慣あるいは自らの法律あるいは自らの宗教というような受けとり方で、受けとるという、かたちになってゆきます。

 その交換によって、たかだか千数百年前に存在したにすぎない統一国家の勢力が、あたかも遠い以前から存在したかの如く装うことができますし、また交換させられたものは、あたかも自分が本来的にもっていた風俗、習慣、法というようなものよりも、もつと強固な意味で、あたかも自分のものであるかの如く受けいれる形態がでてくるわけです。それが恐らく統一国家成立期における、日本の総大衆が、全面的に敗北していったことの、最も基本にある構造だということができます。

 奇妙といえば奇妙なことですが、本来的に自らが所有してきたものではない観念的な諸形態というものを、自らの所有してきたものよりももっと強固な意味で、自らのものであるかの如く錯覚するという構造が、いわば古代における大衆の総敗北の根柢にある問題だということができます。この敗北の仕方は、充分に検討するに価するので、国家といえば天皇制統一国家、という一種の錯誤、あるいは文化といえば天皇制成立以降の文化というふうな錯誤が存在するのですけれども、その錯誤の根本になっているのは、統一国家をつくった勢力の巧妙な政策でもありましょうけれども、ある意味では大衆が、自らの奴隷的観念というもので、交換された法あるいは宗教あるいは儀礼あるいは風俗、習慣というものを、本来的な所有よりも、もっと強固な意味で、自らのものであるかの如く振舞う構造のなかに、本当の意味での、日本の大衆の総敗北の構造があると考えることができます。

 ここで大嘗祭問題とドッキングする。大嘗祭は民俗的な農耕祭儀が抽象的な宮中祭儀として昇華されたものである。そこでは支配部族の共同幻想と被支配部族の共同幻想の巧みな交換が行われている。次回はその論点から大嘗祭の本質を検討していこう。
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