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《真説古代史・近畿王朝草創期編》



『日本書紀』はなぜ「持統紀」で終わるのか。


 梅原氏の論説「二頭政治の善悪」から頂いた第二のテーマ「近畿王朝草創期の真実」を取り上げようと思い、いろいろと資料を集めて全体の構想を練っていたが、あまりに大きなテーマでなかなかまとまらない。「下手な考え休むに似たり」と、毎度のことながら見切り発車をすることにした。そして、あっちに行ったりこっちに飛んだり、かなり長くなりそうなので表題を独立させることにした。

 今まで私は「九州王朝」に対して、奈良(大和)に拠点を置いた分流国家を「ヤマト王権」と呼んできた。多元史観に立つ大方の人は「大和王権」と漢字で表記している。また古田さんは「近畿天皇家」と呼んでいる。これはこの国家の拠点が「大和」だけでなく河内なども含むことを考慮した表記だと思われる。

 これから取り上げる国家は、「九州王朝」に取って代わり、一地方の王権から王朝となった国家である。そこで以後は、「九州王朝」との整合性にこだわって、王朝となった「ヤマト王権」を「近畿王朝」と呼んで区別することにする。大表題を《「真説古代史・近畿王朝草創期編》とした理由である。

 さて、近畿王朝草創期の皇位継承についての梅原さんの解説は次のようであった。

 持続皇后は天武天皇とともに壬申の乱を起こして近江王朝を滅ぼし、飛鳥浄御原に君臨する天武天皇の王朝を樹立した。天武天皇の死後、皇后は、次期天皇の有力候補者であった大津皇子を謀反の罪をでっち上げて殺し、わが子草壁皇太子の成長を待ったが、草壁皇太子は天折した。それで皇后が即位し、無事、草壁皇太子と元明妃の間の軽皇子すなわち文武天皇に皇位を譲ることができた。しかし文武天皇も天折したので、草壁皇太子妃であった元明が即位し、文武天皇の遺児の首皇子の成長を待ったが、元明天皇は万一のことを考えて、文武天皇の姉・元正天皇を即位させ、皇位を保持させた。

 このような女帝たちを助け、無事首皇子すなわち聖武天皇の即位を実現させたのは、権謀術数に富む稀代の政治家、藤原不比等であった。

 近畿王朝草創期のこの複雑な皇位継承関係を系図としてまとめると次のようである。

syokikeizu.jpg
(第一学習社版「新選日本史図表」より)
(クリックすると大きくなります。)


注1
 藤原宮子は藤原不比等の長女である。母は第三夫人・賀茂比売。

注2
 藤原光明子は藤原不比等と県犬養三千代(橘三千代)の娘であり、聖武の母・藤原宮子の異母姉に当たる。県犬養三千代は軽皇子(文武)の乳母を務めていた。

注3
 「淳仁」は廃帝であり、その諡号は1870年(明治3年)に明治天皇から追号されたものである。またそのとき、壬申の大乱で天武に殺された大友皇子も「弘文」と追号されている。

注4
 持統に殺された大津皇子はこの系図には載っていないが、彼の母親(大田皇女 おおたのひめみこ)は持統(鸕野皇女 うののひめみこ)の姉である。


 上の系図から、天智王朝(近江王朝)→天武王朝→天智王朝というおおまかな王朝の変遷が見える。しかし少し注意してみると、天武王朝は実質的には藤原王朝と言ってよいであろう。

 すなわち、天智の後継者・大友皇子を殺して天智王朝から王朝を簒奪した天武王朝であったが、その天皇制構想は、持統天皇死後の不比等の策謀によってその実質を徐々に失っていったのだ。

 不比等は母系系譜を最大限利用した。まず娘・宮子を文武の妃にすることによって、藤原氏の血を引く聖武を天皇据えた。それをさらに、光仁を天皇に立てることによって、天武系から再び天智系へとひねり直した。かくして不比等は、天武の血脈を引き継ぐかに見えた王朝を、天武構想とはまったく違う藤原天皇制を創り変えたのであった。不比等は「女帝たちを助け」たのではなく、女帝を自らの謀略の梃子として利用したのだ。

 さて、「文武紀」に次のような記事がある。これは何を意味しているだろうか。

大宝元年春正月乙亥朔。天皇御大極殿受朝。其儀、於正門樹烏形幢。左日像・青竜・朱雀幡。右月像・玄武・白虎幡。蕃夷使者、陳列左右。文物之儀。於是備矣。 701(大宝元)年
春正月一日、天皇は大極殿に出御して朝賀を受けられた。その儀式の様子は、正門に烏形の幢を立て、左に日像・青竜・朱雀の幡、右に月像・玄武・白虎の幡を立て、蕃夷の使者が左右に分かれて並んだ。こうして文物の儀礼がここに整備された。


 近畿王朝が倭国の別種の国・日本国として国際的(東アジア)に認められて後、始めて自前の元号「大宝」を定めた。上の記事はこの年(701年)に始めて正式な朝賀の儀が開かれたと語っている。つまり近畿王朝が名実ともに王朝としての体裁を整え終わったのは文武天皇の大宝元年であった。

 従って、文武以前の天智・天武・持統の時期は近畿王朝揺籃期と呼ぶのがふさわしい。そしてこの揺籃期に始めて正式な天皇位に即いたのは天智でも天武でもなく持統であった。以下はこの命題の論証である。

 『日本書紀』ではヤマト王権の王たちにも全て漢風諡号が付けられて、全ての王たちを「天皇」と呼称している。言うまでもなく、これはもちろん神武以来ヤマト王権がこの国の支配者であったということを主張するためのトリックである。では真に天皇という呼称で呼んでもよいのは誰からだろうか。それにふさわしい人物は践祚の実質的な儀式である大嘗祭(だいじょうさい 「おおなめまつり」と訓じる)を最初に執り行った者である。大嘗祭を広辞苑は次のように解説している。

だいじょう‐さい【大嘗祭】
天皇が即位後、初めて行う新嘗(にいなめ)祭。その年の新穀を献じて自ら天照大神および天神地祇(てんじんちぎ)を祀る、一代一度の大祭。祭場を2カ所に設け、東(左)を悠紀(ゆき)、西(右)を主基(すき)といい、神に供える新穀はあらかじめ卜定(ぼくじょう)した国郡から奉らせ、当日、天皇はまず悠紀殿、次に主基殿で、神事を行う。おおなめまつり。おおにえまつり。おおんべのまつり。


 この解説には悠紀殿・主基殿という二つの祭場を設けるとあるが、なぜ二つの祭場を必要とするのか、かってキチンと説明できた学者はいない。いまだ謎とされている。この謎は後ほど明らかにされるだろう。

 ところでウィキペディアでは大嘗祭を次のように解説している。

毎年11月に、天皇が行う収穫祭を新嘗祭という。その年の新穀を天皇が神に捧げ、天皇自らも食す新嘗祭のことを、古くは「毎年の大嘗」と称した。当初は通常の新嘗祭と区別されなかったものの、後に即位後初めて一世一度行われる祭として、「毎世の大嘗」「大嘗祭」として重視された。大嘗祭と新嘗祭が区別されたのは、天武天皇の大嘗祭のときとされる。

(以下、古田さんの講演録「大嘗祭と九州王朝の系図」を教科書とします。)

 ウィキペディアの解説では大嘗祭を始めて執り行ったのは天武としている。その論拠はたぶん「天武紀」の次の記事である。

十二月壬午朔丙戌。侍奉大嘗中臣。忌部。及神官人等。并播磨。丹波二国郡司。亦以下人夫等、悉賜禄。因以郡司等各賜爵一級。

673(天武2)年
12月5日、大嘗(おほにへ)に仕え奉った中臣(なかとみ)・忌部(いむべ)および神官の人たち、ならびに播磨、丹波二国の郡司、さらにまたその配下の人夫らに、褒美を賜った。郡司たちにはそれぞれ爵(酒盃か)一品を賜った。


 これは『日本書紀』に「大嘗」という言葉が出てくる最初の記事である。大嘗祭に参加した人たちに褒美をあげたという記事だ。しかし大嘗祭を行ったという記事はどこを探してもない。『日本書紀』の編纂者がかきわすれた? 近畿王朝の正史に実質的な践祚を示す大事な儀式を書き忘れるなんであり得るだろうか。不可解だ。(この問題も後ほど取り上げることになる。)

 『日本書紀』で「大嘗祭を行った」という最初の記事は「持統紀」にある。

十一月戊辰。大嘗。神祗伯中臣朝臣大嶋、読天神寿詞。

691(持統5)年
11月1日に、大嘗祭を行った。神祇伯(かむつかさのかみ)中臣朝臣大嶋が天神寿詞(あまつかみのよごと)を読んだ。


 『日本書紀』ではこの記事が「大嘗す」という言葉が出てくる最初で最後の記事である。神武から天武まで「大嘗す」という言葉は皆無である。何故だろうか。ヤマト王権一元主義の立場では謎と言うことになってしまうが、多元史観に立てば当然すぎるほど当然なことである。

 新嘗祭は誰でもどこでも行うことができる。新嘗祭の記事なら『日本書紀』にもたくさん出てくる。「推古紀」以降を調べてみた。舒明紀と「皇極紀」に出てくる。天武紀には6ヵ所もある。

 しかし大嘗祭は誰が行ってもよいものではない。大嘗祭とは中心権力者が行なう新嘗祭である。中心権力者ではなかった時代のヤマト王権が大嘗祭を「行えなかった」(「行わなかった」ではない)のは当然のことなのだ。だが持統天皇のときになってようやく何の遠慮もなく大嘗祭を行なった。大嘗祭を行うことによって、近畿王朝こそが中心の権力者であることを始めて宣言したのだった。

 持統天皇の後、文武、元明、元正と皇位が継承されていく。『日本書紀』は元正天皇のときに編纂された。ではなぜ、『日本書紀』は「持統紀」で終わって「文武紀」や「元明紀」がないのだろうか。文武天皇や元明天皇を軽視していると言われてもしかたないだろう。しかし上で明らかになったように、持統天皇が「大嘗祭を行うことによって、近畿王朝こそが中心の権力者であることを始めて宣言した」のだから、『日本書紀』を「持統紀」で終えるのは実に理にかなった処置なのだった。
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藤原宮跡で最古の「大嘗宮」遺構?
最古の「大嘗宮」か 藤原宮跡で遺構を発見 (1/2ページ) - MSN産経ニュース
sankei.jp.msn.com/culture/academic/100701/acd1007012032004-n1.htm
2010/07/01(木) 21:37 | URL | ゴンベイ #eBcs6aYE[ 編集]
藤原宮跡の「最古の大嘗宮跡」は誤認
藤原宮跡の「最古の大嘗宮跡」は誤認 - 奈良文化財研究所が調査結果を撤回 - ウィキニュース
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2010/11/28(日) 14:17 | URL | ゴンベイ #eBcs6aYE[ 編集]
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