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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
今日の話題

素敵な会社とその経営者


 「企業経営の社会主義化」 でアメリカの素敵な企業とその経営者の経営哲学を紹介しました。そのとき
「従業員を搾取することなく(=人間として大事に扱い)成功している企業は日本にもかなりあると予想しているが、私の狭い情報源には入ってこない。できれば日本の例で話を進めたいのだけれど、やむを得ない。」 と書きましたが、昨日、日本の素敵な会社とその経営者を知りました。それを紹介します。

 東京新聞夕刊に「あの人に迫る」という好企画記事があります。昨日(3月5日)の「あの人」は「万協製薬」社長の松浦信男さん。レポート記者(インタビュアー)は我那覇圭さん。

 松浦さんはお父上が神戸で経営していた会社の工場が阪神大震災で壊滅的な打撃を受けた後を継いで、その会社を三重県多気町で再興しました。松浦さんは「今、全国の会社経営者から熱い注目を集める人」だそうです。まずは松浦さんの履歴から。

 まつうら・のぶお1962(昭和37)年神戸市生まれ。高校を卒業して進学を目指すが、2浪の末に万協製薬に入社。働きながら別の商業高校の夜間学級で簿記を習う。84年に徳島文理大薬学部に入学、薬剤師の資格を得て卒業。現在は三重大大学院の博士課程で化粧品の美肌成分の研究にも励む。

 三重移転後の15年間で売り上げを50倍の17億円に伸ばした。福利厚生では育児休暇を3年間認め、地域貢献ではトレーニングジムを住民に無料開放している。2006年から3年連続で三重県経営品質賞の知事賞などを受賞。本年度の「日本経営品質賞」(中小企業部門)にも輝いた。日本経営品質賞の授賞理由には「優しさによる相互扶助の精神性が根付いている」とある。

 3年間の育児休暇とか、社員用にトレーニングジムの設置とそれを地域住民に無料開放とか、これだけで杉浦さんの経営哲学がうかがい知られますが、我那記者のレポートから杉浦さんの経営哲学をうかがってみましょう。

まずは会社の概要から。
 おやじが1960(昭和35)年に創業しました。自社商品だけを作っていましたが、震災後に三重県の誘致を受けて移転してからは、スキンケアクリームを中心とする他社商品の受託製造に力を入れています。顧客が欲しいと思う商品を欲しい分量だけ安価で迅速に提供しています。

震災でどんな被害を受けたんですか。
 工場が全壊し、二階部分が一階部分にそのまま落ちました。おやじは何も考えられないような状態になってしまい、二代目の僕が経営者代行となりました。初めてした仕事は当時の従業員25人の解雇です。
 西日が差す工場の跡地で、ぼうぜんと立ち尽くした彼らの表情が忘れられません。今、「互いに励まし合う組織づくり」を目指しているのは当時の罪滅ぼしでもあります。

松浦さん自身の被災の記憶は。
 自宅で寝ていて襲われた。妻と10ヵ月の娘は隣の部屋にいて、娘の布団には32インチのテレビが落ちてきた。布団からはい出していたので娘は助かったんですけど。会社が気になり、家を飛び出した。あちこちで巨大な煙の柱が上がり、見える明かりはすべてが火事だった。この世の終わりのようでした。

再起のきっかけとなったのは。
 震災から数週間後に神戸の隣の明石市で、銭湯が再開したというニュースを新聞で見て行きました。順番待ちをして入った浴槽には膝が漬かるほどのお湯しかなく、暗がりの中で体を寄せ合って漬かった。
 初めての風呂で人心地がつき、ふと考えたんです。人生で最も衝撃的な体験をしている今を、新たに生まれ変わる契機にしたい。おやじや従業員らの意見の調整にばかり気を使って押さえ付けてきた自分を、外の世界に積極的にさらけ出していこうと決めたのです。

1年後、三重県での操業にこぎ着けました。
 当初は僕と妻と大学時代からの友人の三人だけ。別の会社に預けていた機械を返してもらい「デンタルピルクリーム」という口内炎の薬を作った。
 97年1月にそのラベルを張った時、長い旅を終えた安心感があった。商品を取り戻し、震災からの復興という意味では一区切りを付けた。次は自分たちの存在を社会に認めさせてやろうと考えました。

それはなぜですか。
 正直、震災で社会に対して悲観的な見方を持つようになっていた。あの時、誰も助けに来てくれなかったのは一生忘れない。なぜ自衛隊はすぐに出動しなかったのか。もっと早く救助が来ていればもっと多くの人が救えたんじゃないか。
 どっかのヘリコプターは上空をぐるぐる回っていた。風圧で火事が大きくなっているような気がした。仕事でも見向きもされず、必要とされない時期が続いた。なぜこんな目に遭わなければいけないんだと、世の中を恨みました。
 だから今やっているアウトソーシングサービス(受託製造)は、ある意味で社会への〝復讐″といえるかもしれない。相手への関与を強め、いざ地震が起こった時に「万協を助けなければ、自分たちの会社も大変なことになる」と感じてもらえるように。

経営を軌道に乗せるまでに困難もあったのではないですか。
 わずかに入社してくれた従業員と一緒に仕事をするしかなかった。不良品ばかりつくってよく顧客に謝りに行きました。でも厳しくしかるようなことはしなかった。僕と同じようにほかに居場所がない人たちなのかもしれないと思った。
 万協は中途採用者が8割を占めていて学歴などもさまざま。一流の人間が一流の仕事をするより、二流が集まって一流を目指す方に意味があると訴えて、世の中に切り込む執念を一緒に燃やした。

逆境に立ち向かえた最大の要因は。
 僕には幸せな家庭があった。それがすべてです。被災後にすぐ家を出てから一時は妻と娘がどこにいるか分からなくなった。一晩中捜して避難所で再会した。
 どんなにつらい状況に直面しても、「家族と生きているだけで丸もうけ」という気持ちがあり、基本軸が悪い方向にぶれなかった。逆に家族を失った人のつらさは痛いほど分かる。
 従業員をはじめとする周囲も悲しみを癒やしてくれた。絶望のふちに立った人生を語ると励ましてくれたし、「松浦さんの頑張りに勇気づけられる」とも言ってくれた。僕の思い出話に価値を見いだしてくれた。

震災の教訓は経営にどう生かしましたか。
 徹底的に従業員を大事にするようにした。営業はすべて一人でやり、成功すれば彼らの努力の結果であると褒め続けた。経営幹部との垣根を取っ払い、個人的な相談でも何でも受け付けている。飲み会などに補助を出したり。従業員が幸せでない会社が顧客を幸せにできるわけがない。

今後の目標は。
 震災を生き延びた者として、亡くなった方々の分までしっかりと生きる。仕事や各地での講演会などを通じて、公私ともに誰かを元気にしたい。
 三重大で講演した時、ボランティアでアフリカを訪れたという男子学生が「現地の貧困の様子が頭から離れず、友人らと楽しく遊べなくなった」と悩みを打ち明けてくれた。
 僕は「いずれ君の気持ちが誰かの役に立つ日が来る」と伝えた。僕も震災を経て、自分の気持ちを表現し分かってもらえるまで20年かかった。彼から感謝のメールが届いたのはうれしかった。
 3年前には母親が風呂場でおぼれ死ぬ事故があった。もっと話しておけばよかったという無念さが募り、コミュニケーションを増やそうという気持ちもより強くなった。
 その際、「結局は金でっせ」とか、「勝つか負けるかしかありませんわ」とか、現実的な話はしたくない。僕だからこそ、人生はいつでもやり直しができる、励まし合おうやないかと叫び続けたい。そして周りにも問いたい。どれだけ立派な人生を生きたかよりも、どれだけ人を励ましたかを語りませんかと。

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