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《「真説・古代史拾遺編》(123)
梅原猛「思うままに・二頭政治の善悪」をネタに


日本国の律令(1)


 日本国が制定した律令(大宝律令・養老律令)に先だって「近江令」「飛鳥浄御原令」があったとされている。この先行の二つは「律令」ではなく「令」である。「令」だけが制定されたということだ。高校の教科書では次のように書かれている。

近江令
 668(天智7)年制定
 671(天智10)年実施
 編纂中心人物・中臣鎌足

 しかし「天智紀」には「近江令」制定の記事はない。国政の根幹を決める法令の制定記事を書き忘れた? ありえない。それにしても上記の制定年や実施年は何によっているのだろうか。『藤氏家伝』(とうしかでん)の次の記事がその根拠のようだ。

「(天智7年)帝大臣(おほおみ)に礼儀を撰述せしめ、律令を刊定せしめたまふ。」

『弘仁格式』(序)にも「天智元年に令22巻を制定した。これが『近江朝廷之令』である」という記録があるようだ。

(注:教科書は天智の称制期間も含めて「天智~年」と言っている。上の二つの古記録は即位年を「元年」としている。)

 近畿王朝が正史と位置づけている『日本書紀』に該当記事がないので、「近江令」はなかったとする説もあるという。「存在説」と「不存在説」の言い分を聞いてみよう。(ウィキペギアより転載)

 当時は天智天皇のもとで政治体制の近代化が進められ、中国の諸制度の積極的な導入が行われており、その根幹となる律令(近江令)が当然に定められたはずと見るのが存在説である。存在説の立場では、近江令は律令制導入へ至る先駆的かつ重要な法令であり、後の飛鳥浄御原令や大宝律令へ影響を与えたとしている。

 しかし、『藤氏家伝』も『弘仁格式』も後世(8~9世紀)に編纂されたものであり、正史の『日本書紀』には近江令制定の記事はない。しかし、天智9年(670年)条「朝庭の礼儀と行路の相避ることを宣う」とある。これは令とともに礼を撰述させたのである。天智10年(671年)に「冠位・法度の事を宣い行い給う」とある。また、『弘仁格式』は、天智天皇系の皇統を重視した記述となっているため、天智天皇の業績をより大きく評価したものであると理解できる。これが非存在説の根拠である。

 ただし、非存在説はいくつかの立場に分かれている。まったく令は存在しなかったとする説、天智期に制定された諸法令を総称して、後代に近江令と呼んだとする説、完全ではないがある程度の令が編纂されたとする説、ほぼ完全な形に近い令が編纂されたが施行は一部にとどまったとする説、などである。非存在説の主張は、律令制構築への動きについて、天智天皇よりも天武天皇の影響力の大きさを重視する傾向が強い。

 どの説も推測の域を出ていない。たいへんな混迷ぶりである。ヤマト王権一元主義に立つかぎり、このような混迷は避けられない。日本国に先立って倭国ありという視点を持てば事態は実に簡明である。ただこの場合、もう一つの視点を加える必要がある。「日本国の律令」ということがはっきりとしている「大宝律令・養老律令」の方から眺める視点である。この二つの視点を持って眺めるとどう見えるか。それを論ずる前に「飛鳥浄御原令」についても調べておこう。まず教科書では次のようになっている。

飛鳥浄御原令
 制定年不明
 689(持統3)年実施
 編纂中心人物・粟田真人

 「持統紀」3年の条に次の記事がある。

(6月)庚戌(かのえいぬのひ 29日)に、諸司に令一部廿二巻を班(わか)ち賜ふ。

 しかし「持統紀にはやはり浄御原令の制定記事はない。「「定説」(岩波大系版の頭注)は上の記事を論拠に689年を浄御原令の実施年としている。ただしこの記事を「近江令の施行」とみる説もあるという。

 なお「定説」では「天武紀」の681(天武10)年2月25日の次の記事を「浄御原令の編纂開始」を示す記事としている。

天皇・皇后、共に大極殿に居(おは)しまして、親王・諸王及び諸臣喚(め)して、詔して曰はく「朕、今より更(また)律令を定め、法式を改めむと欲(おも)ふ。故、倶に是の事を修めよ。…」と。

 ウィキペディアを読んでみよう。

 飛鳥浄御原令に先行する律令法には、天智天皇が668年に制定したとされる近江令がある。近江令の存在については、非存在説も含めて見解が分かれているが、近江令とは、律令制を指向する単行法令を総称したものであり、体系的な法典ではなかったとする見方が広く支持されている。

 天智天皇を後継した大友皇子から、軍事力によって政権を奪取した天武天皇は、政権中枢を皇子らで占める皇親政治を開始し、専制的な政治を行っていった。天武は、その強力な政治意思を執行していくために、官僚制度とそれを規定する諸法令を整備していった。このような官僚(官人)と法律を重視する支配方針は、支配原則が共通する律令制の導入へと帰着した。天武10年2月25日(681年)、天武は皇子・諸臣に対して、律令制定を命ずる詔を発令した。しかし、律令が完成する前の686年に天武が没したため、その皇后鸕野讚良皇女(うののささらのひめみこ 持統の幼名)と皇太子の草壁皇子が律令事業を継承した。服喪があけた後に、草壁が次期天皇に即位する予定だった。しかし、草壁は持統3年4月(689年)に急死した。

飛鳥浄御原令が諸官司に頒布されたのは、その直後の同年6月である。律は制定されず、令のみが唐突に頒布されていることから、草壁の死による政府内の動揺を抑え、天武の(律令制定という)遺志の継承を明示するため、予定を前倒しして、令のみが急遽公布されたのだと考えられている。

 「浄御原令」の場合も、「定説」はヤマト王権の制定によるものであると端から決め掛かっていて、その論証に四苦八苦している。やはり推測の域を出ていない。

 では多元史観の立場からはどのように論じられているだろうか。まず大宝律令と養老律令について、現段階で分かっていることを確認しておこう。

 日本国最初の体系的な成文法典である大宝律令については『続日本紀』の701(大宝元)年8月3日の記事に次のように記録されている。
「三品の刑部親王・正三位の藤原朝臣不比等・従四位下の下毛野朝臣古麻呂・従五位下の伊吉(いき)連博徳(あかとこ)・伊余部連馬養(うまかい)らをして律令を撰定せしむ。是に於て始めて成る。」

 この大宝律令は律・令とも散逸してしまい、『令集解』(りょうのしゅうげ 859~877)所載の「古記」に引用された逸文などによって、その一部が復元されているだけである。

 大宝律令撰定後、早くも養老年間(717~724)に藤原不比等を総裁として再び律令が刪定(さんてい)刊修され、757(天平勝宝9)年に施行された。これが養老律令である。これ以後は必要に応じて格を発して、律令そのものを改廃したり、新たに律令が編纂されることはなかった。

 養老律令は、大宝律令の若干の内容修正のほかは、単に字句等を修訂したにすぎないといわれている。現在、日本律令として伝えられているのは、この養老律令である。

 養老「律」は、全編の約4分の1が残存し、他の部分も諸書に引用された逸文がかなり蒐集されている。養老「令」の方はその大部が公定注釈書『令義解』(りようのぎげ 833年)に現存し、亡失した部分も諸書に引用された逸文によってほぼ再現されている。

(ネットはすごい。「藤氏家伝」も「養老令」も全文ネットで読めます。おおいに利用させても頂きます。)

『藤氏家伝』

『現代語訳「養老令」全三十編』
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