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《「真説・古代史拾遺編》(122)
梅原猛「思うままに・二頭政治の善悪」をネタに


倭国の律令


 白村江の戦に破れ衰退した倭国に取って代わった日本国は全ての面で先進国であった倭国の制度や文化を引き継いでいる。律令制度の場合はどうであろうか。このような問題もあるので、前回に予告した「日本国の律令の歴史」を取り上げる前に、「倭国の律令」についても調べておこう。

 日本における最初の体系的な成文法典は大宝律令であるということから、従来の古代史学では8世紀初めが律令体制ができた初めであるとされてきた。しかしこれはヤマト王権一元主義の立場からの「定説」にすぎない。8世紀始め、日本国が抹殺した倭国も視野に入れれば話はまったく異なってくる。

 前回見たように、中国では秦の始皇帝の時代に既に律令が存在した。委奴(ゐど)国王に金印を授けた漢も当然律令国家だった。卑弥呼(ひみか)が使いした魏や倭の五王が使いした南朝劉宋ももちろん律令国家だった。委奴国王も卑弥呼も倭の五王も先進国漢・魏・宋の文化をおおいに取り入れていただろう。倭王・武は見事な漢文で上奏文を書いている。それくらい中国文明に対して傾斜を深めていた倭国が肝心かなめの「律令」を知らなかったはずはない。

 一年ほど前、6世紀前半の倭王・磐井が既に隋・唐以前の古律令を取り入れていたことに、 『謡曲のなかの「壬申の乱」』 で簡単にふれた。このことを今度は少し詳しく取り上げることにする。そのため、「筑後国風土記」の「磐井の君」の記録を再度掲載する(今回は岩波古典文学大系版から引用)。

筑後國の風土記に曰く、上妻(かみつやめ)の縣、縣の南二里に筑紫君磐井の墓墳あり。高さ七丈、周り六十丈なり。墓田は、南と北と各六十丈、東西各卌(40)丈。石人(いしひと)・石盾(いしたて)、各六十枚。交陣(こもごもつら)なり行(つら)を成して四面に周匝(めぐの)れり。東北角に当り、一つの別區(ことどころ)あり、號(なづ)けて衙頭(がとう)と曰ふ。〈衙頭は政所なり。〉其の中に一人の石人あり。縦容(おもぶる)に地に立てり。號けて解部(ときべ)と曰ふ。前に一人あり。躶形(あかはだか)にして地に伏せり。號けて偸人(ぬすびと)と曰ふ。〈生けりしとき、猪を偸(ぬす)みき。仍(よ)りて罪を決められんとす。〉側に石猪四頭あり。臓物と號く。〈臓物は盗みし物なり。〉彼の處に亦石馬三疋・石殿三間・石蔵二間あり。(以下「磐井の乱」の記述が続くが略す。)

 省略した部分の文中に「(筑紫君磐井)生平(い)けりし時、預(あらかじ)め此の墓を造る。」という一文がある。上記の石像群も生前に磐井が造ったものであろう。そして上記の文章から、この石像群は明らかに裁判の場面を表わしていることが分かる。

 縦容として立っている「解部(ときべ)」が裁判官である。磐井のもとに各種の「~部」があり、それぞれの長官と「部民」がいたことを示している。その前に、猪と共に猪を盗んだ者が地に伏せている。この罪人が解部によって裁かれている図である。

 では、なぜ磐井はこのような石像群を自分の墓のそばに造作らせたのだろうか。磐井は裁判の基礎をなす法令を制定施行して、それを自己最大の治績と見なしていた。そして磐井はそのもっとも誇るべき自己の業績を後世に伝え、その法治体制を守らせたいと考えたのだ。これがわざわざ自分の墓にこのような展示物を造った意図であったろう。

 では磐井が制定した法令はどのような性質のものだったろうか。それは明らかに律(刑法)を中心とする「古律令」であったろう。ここに展示された「裁判の場」こそ、「古律令の制定と施行」を象徴するものだったと言えよう。このことをより詳しく論じているみよう。

(ここで教科書を追加します。以下は増田修さんの論文「倭国の律令 筑紫君磐井と日出処天子の国の法律制度」によります。)

 泰始4(268)年西晋の武帝が公布した泰始律令は、刑罰法規としての律と行政法規としての令が明確に分岐したのであり、中国法制史上画期的な意義をもつものであった。しかし、律と令の分業が成立しながら、刑罰法を重視する法家の伝統的思想は、この後も一貫して存続した。泰始律令は東晋・南朝宋・斉に承継され、梁・陳の律令も晋律令を基本としたものであった。律令格式(新律令)の体系が整うのは隋代以後である。

 磐井とほぼ同じ時代、新羅の法興王も律令を制定している。晋の泰始律令の影響下に成立した高句麗律令を基にしている。つまり泰始律令は、南朝の冊封体制下にあった東夷の国々にあまねく影響を及ぼしていったことになる。

 『晋書』によると、武帝年間の西晋には、東夷諸国がしきりに、来献・内附・帰化している。倭国の女王壹与も、泰始2(684)年西晋に入貢している。その後も倭国は、東晋の安帝の義煕9(418)年倭王讃が方物を献じたのを始めとして、南朝宋には珍・済・興・武と朝献して軍号を授与されるなどしている。、少なくとも倭王武が梁の高祖武帝の天監元(502)年鎮東大将軍から征東将軍に進号するまで、南朝の冊封下にあった。

 このような倭国が、晋泰始律令の影響を受けて、律令を制定するに至ることは、必然であろう。磐井の律令は、晋泰始律令を範として作られたと考えられる。しかし、解部という官職名が中国にはみられないように、律においては特に倭国の個有の伝統が重んじられていたと思われる。磐井の墓の別区=衙頭は、政所であるといい、石馬三疋・石殿三間・石蔵二間が存在する。石殿は政治・行政を執行する宮殿、石蔵は租税などを収納する倉庫と思われる。磐井は、律のみではなく、令も制定していたといってよいだろう。

 筑紫の君磐井に次いで、倭国において律令を制定したのは、あの日出づる処の天子多利思北孤である。磐井の半世記余りあと、「天子」を自称した多利思北孤が律令を制定しないはずはない。「隋書俀国伝」に次の一文がある。

新羅・百済、皆俀を以て大国にして珍物多しと為し、並びに之を敬仰し、恆(つね)に通使・往来す。

 新羅のみならず、この頃にはすでに、百済にも律令があった。その新羅・百済が大国として「敬仰」していた大国に律令がない方がおかしい。

 「俀国伝」が伝える刑罰記事は次のようである。

其の俗、人を殺し、強盗および姦するは皆死し、盗む者は臓を計りて物を酬いしめ、財なき者は身を没して奴と為す。自余は軽重もて或は流し或は杖す。獄訟を訊究(じんきゅう)するごとに、承引せざる者は、木を以て膝を壓し、あるいは強弓を張り、弦を以てその項鋸(きょ)す。あるいは小石を沸湯の中に置き、競う所の者をしてこれを探らしめ、いう理曲なる者は即ち手爛(ただ)ると。あるいは蛇を瓮中(おうちゅう)に置きてこれを取らしめ、いう曲なる者は即ち手を螫(さ)さると。

 ここには、すでに北魏で成立している五刑(死・流・徒・杖・笞)対応する死・流・杖という法律用語がみられる。また、盗物の量を計って、それに見合う物を罪人が被害者に賠償する制度や、その賠償をするための財力を持たない者には被害者に身柄を委付して奴となって被害を償わしめる刑は東夷の諸国において古くから行なわれてきたものであり、もちろん唐でも制度化されていた。

 このように「俀国伝」の刑罰記事は、俀国に律があったことを明示している。しかし、その裁判の手法は、磐井の時代と同じく、拷問・盟神探湯(くがたち)などという古来からの手法を存続させたままであった。

 倭の五王が南朝の冊封下にあったことから考えれば、九州王朝系の律令は当然ながら南朝系の古律令を核心としていたと思われる。しかし多利思北孤の律令は、隋の影響下にあったことを考えると、「古律令」に「新律令」的な要素も加味されていたのではないか。ともあれ、当然「律」のみではなく「令」も制定していたはずだ。「十七条の憲法」はその「令」の一部だったのではないか。
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