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516 認識論と矛盾論(6)
誤理論は毛沢東へと続く
2006年6月5日(月)


 レーニンを神格化していったソ連の哲学者たちはマルクス主義の真理論のレーニンによる歪曲・修正を見抜けなかったばかりか、反対にこれをエンゲルスの理論を発展させたより高い段階の理論だと持ち上げた。そして、この間違った真理論に毛沢東までが無批判的に追随していったという。三浦さんは毛沢東の「実践論」から引用している。

『絶対的真理の大きな流れの中では、個々の一定の発展段階での具体的な諸過程についての人間の認識は、ただ単に相対的な真理性を持つにすぎないものであると考える。無数の相対的な真理の総和こそが、つまり絶対的な真理なのである。』

 三浦さんがこの論考を書いた頃、いわゆる「中ソ論争」が加熱していた。その論争の中国側の論文には、さらにマルクスやエンゲルスが全く使ったことのない概念、「いついかなるときにも妥当する」という意味で「普遍的真理」という概念まで追加されているという。これはもうデューリングの形而上学的真理論まで後退してしまっている。デューリング氏曰く。

『ほんとうの真理というものは決して変化することのないものである。……であるから、時間や現実的変動によって認識の正しさがそこなわれうると考えるのは、総じておろかなことである。』

 この相対的真理を絶対化した真理論が『中国の教条主義あるいは「トロツキズムのくりかえし」をささえる認識論的な根源』であると、三浦さんは指摘している。一例として、「核世界戦争においても正義の戦争と不正義の戦争の区別が妥当する」と主張した当時の中国の戦争論をあげている。

『正義の戦争と不正義の戦争を区別せず同一に論じたり、一律に反対したりするのは、ブルジョア平和主義の観点であって、マルクス・レーニン主義の観点ではない。』

 「正義の戦争と不正義の戦争」という区別は普遍的真理であると言っている。まるでこれは新自由主義の観点からイラクに「正義の戦争」を仕掛けたブッシュの論理と同じだ。

 これに反して、マルクス主義の真理論に拠れば、『この命題にはそもそもはじめから少しばかりの誤謬がこびりついており、対象領域をひろげすぎると相対的誤謬に転化してしまう』と考えることになる。三浦さんの見解を聞こう。


 正義の戦争と不正義の戦争とは、戦争の動機やスローガンによって区別されるものではない。敵を倒して人民を救うという、戦争自体の性格において、これが正義の戦争とよばれるのである。
 戦争によって戦闘員である人民はもちろん、非戦闘員である人民さえ多少とも被害を受けることは、どんな正義の戦争でも免れることはできない。ここにすでに、正義の戦争であることを否定する客観的な契機がひそんでいる。

 武器が小銃や手榴弾などから、ガス、細菌などのようなコントロールの困難な、しかも戦闘員が防禦用具を持つに反して一般の人民が持たないようなものに進み、さらに核兵器のように殺傷力・破壊力が人類の滅亡をもたらすものになると、戦争をはじめる動機は正義であっても現実の戦争には敵を倒して人民を救うという性格を与えることができない。正義の戦争と不正義の戦争があるという命題はここではもはや妥当性を失ってしまう。もしこの命題を絶対的に妥当するものとして、あらゆる戦争に通用しようと試みるならば、世界核戦争においてはエンゲルスが警告しているようにその反対物に転化し、この中国側の命題は誤謬となり、「ブルジョア平和主義」の誤謬が真理となる。



 ブッシュの戦争にはその動機にさえ正義のひとかけらもなかった。そして今なお、イラクの人たちは毎日虐殺され続けている。ブッシュやそのポチ・コイズミのような人民の敵が裁かれもせず、世界の指導者、国の指導者としてしてのうのうとのさばっている、いや、のさばらせているいる人類に希望はない。人間はほんとうに救いようのないドウツブだ。

 と、ついまた言ってもむなしい愚痴を吐露してしまった。
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