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《「真説・古代史拾遺編》(116) 東京新聞連載
「東アジア流2」をネタに(9)


「弥生の絹」・「國引き神話」


 王さんの論文の続きを読んでいこう。
 『続日本紀』を中心に、東アジアにおけるシルク類の流通を調べてみたところ、輸出二十六件に対し輸入は一件のみと、弥生時代から養蚕技術を導入し、奈良時代にいたると、高度な技術力と巨大な生産量をバックに、もっぱらシルクの輸出国に成長していたことが分かった。奈良朝にかぎっていえば、日本は海のシルクロードの終着駅というよりも、その始発駅だったといってもいいだろう。

弥生時代の倭国産絹

 弥生時代の倭国における絹生産の中心は、もちろんのこと筑紫である。既に『「邪馬台国」論争は終わっている。(7)』などでふれてきたことだが、今のところ、中国産の絹は春日市の須久(すく)岡本遺跡だけに出土している。他は全て倭国産の絹である。そして、倭国産の絹は博多湾岸とその周辺に集中している。

 近畿では奈良県天理市の黒塚遺跡の木棺から絹が出土している。もちろん倭国の絹で、その木棺はめずらしく桑の木で作られていろという。その墳墓の主は絹生産に一生をかけて、それを誇りにしていたのではないか。古田さんは「絹(蚕)を糸島・博多湾岸から近畿にもたらした人物であろう」と推測している。

 日本は周囲を海にかこまれた地縁により、大陸との人的交流がきわめて困難であり、したがって人よりも書物を師と仰ぐ独自の文明受容のモデルが考案されたのだろう。遣隋使以来、先進文明に追いつき追い越せで、江戸時代まで漢文書籍を孜孜(しし)として求めつづけ、ブックロードをきり開いたのである。

「大陸との人的交流がきわめて困難」?

 倭国以来日本が「漢文書籍を孜孜として求めつづけ」た理由の一つとして、「大陸との人的交流がきわめて困難」であったことをあげているが、その二つは無関係だろう。それに、果たして「大陸との人的交流がきわめて困難」だったろうか。私は、よく言われる「日本は稀なる孤島」という俗説を思い出している。(このテーマは 『「日本」とは何か』 で、かなり詳しく論じた。参照してください。)

 海を渡ることにはたいへんな危険が伴う。今でも海難事故は後を絶たない。ましてや古代の木造船ではその危険度は計り知れない。しかし、日本と中国・朝鮮との人的交流はその危険を越えて、縄文時代から盛んであったと思われる。古来、人間の活動範囲は意外と広かった。例えば次のような研究がある。(古田武彦著『吉野ヶ里の秘密』より)

 ウラジオストック周辺の三十数カ所の遺跡から出土した七十数個の黒曜石を顕微鏡による屈折率検査で鑑定した結果、その約5割が隠岐島の黒曜石、約4割が秋田県の男鹿半島の黒曜石、約1割が不明(中国と北朝鮮との国境の白頭山のものか)だったという。

 また、それら黒曜石の遺物(鏃)の出土遺跡は、放射能測定によると、前2000年から前1500年のものがという。縄文後期前半頃にあたる。

 古田さんは出雲風土記の「国引き神話」は縄文時代に成立した神話であるとし、その神話に出てくる「北門」を「大ウラジオ湾を原点にした沿海州の一帯」に比定している。この説が発表された当時、学者たちは“片腹いたい”とでも言うように一蹴したそうだ。上記の「発見」は、「国引き神話」についての古田説が正しいことを傍証することとなった。

 まず「国引き神話」を引用しよう。(岩波古典文学大系『風土記』より)

國引き神話(出雲國風土記 意宇郡)

意宇(おう)と號(なづ)くる所以(ゆえ)は、國引きましし八束水臣津野命(やつかみづおみつののみこと)、詔(の)りたまひしく、
「八雲立つ出雲の國は、狭布(さの)の稚國(わかくに)なるかも。初國(はつくに)小さく作らせり。故(かれ)、作り縫はな」
と詔りたまひて、

「栲衾(たくぶすま)、志羅紀(しらぎ)の三埼(みさき)を、國の餘(あまり)ありやと見れば、國の餘あり」
と詔りたまひて、童女(をとめ)の胸鉏(むなすき)取らして、大魚(おふを)のきだ衝(つ)き別けて、はたすすき穂振り別けて三身(みつみ)の綱うち挂(か)けて、霜黒葛(しもつづら)くるやくるやに、河船のもそろもそろに、國來(くにこ)々々と引き來(き)縫へる國は、去豆(こづ)の折絶(をりたえ)より、八穂爾支豆支(やほにきづき)の御埼なり。此(か)くて、堅め立てし加志(かし)は、石見の國と出雲の國との堺なる、名は佐比賣(さひめ)山、是なり。亦、持ち引ける綱は、薗の長濱、是なり。亦、

「北門(きたど)の佐伎(さき)の國を、國の餘ありやと見れば、國の餘あり」
と詔りたまひて、童女の胸鉏取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穂振り別けて、三身の綱うち挂けて、霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、國來々々と引き來縫へる國は、多久(たく)の折絶(をりたえ)より、狭田(さだ)の國、是なり。亦、

「北門の農波(ぬなみ)の國を、國の餘ありやと見れば、國の餘あり」
と詔りたまひて、童女の胸鉏取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穂振り別けて三身の綱うち挂けて、霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、國來々々と引き來縫へる國は、宇波の折絶より、闇見(くらみ)の國、是なり。亦、

「高志(こし)の都都(つつ)の三埼を、國の餘ありやと見れば、国の餘あり」
と詔りたまひて、童女(をとめ)の胸鉏取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穂振り別けて三身の綱うち挂けて、霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、國來々々と引き來縫へる國三穂の埼なり。持ち引ける綱は、夜見の嶋なり。堅め立てし加志は、伯耆(ははき)の國なる火岳(ひのかみだけ)、是なり。

「今は、國は引き訖(を)へつ」
と詔りたまひて、意宇の社(もり)に御杖(みつえ)衝き立てて、「おゑ」と詔りたまひき。故、意宇といふ。謂(い)はゆる意宇の社は、郡家(こほりのみやけ)の東北(うとら)の邊(ほとり)、田の中にある墪(こやま)、是なり。圍(かく)み八 歩(あし)ばかり、其の上に一もとの茂れるあり。


 この神話に対する古田さんの読解は次の通りである。

『出雲風土記』中に、著名な神話がある。「国引き神話」だ。これによると、八束水臣津野命(やつかみづをみつののみこと)はつぎの四箇所から「国引き」し、大出雲を形成した、という。

 第一、志羅紀の三埼
 第二、北門の佐伎の国
 第三、北門の良波の国
 第四、高志の都都の三埼


 右の第一が新羅(朝鮮半島南半東岸)、第四が越(能登半島)を示す点、異論がない。この2例から考えると、つぎのルールがある。

①その二領域とも「出雲」に属しない。
②現在の日本国の内外を問わない。


 以上のルールによると、従来〝当て″られてきた、島根県北岸(鷺浦や農波等)・隠岐(島前・島後)は当らない(出雲と隠岐が別国とされたのは、後代の行政区画)。

 これに対し、妥当するところ、それはウラジオストックである。

(その一)
 「北」にある。また「門」というように、出入口、すなわち港である。
(その二)
 出雲から「北」に当っている。
(その三)
 四つのうち「二つ」を占める、その〝拡がりのバランス″から見て、この「北門」が小港や小領域では、ふさわしくない。

 以上だ。第二は、北朝鮮のムスダン岬である。北から見て、ウラジオストックの右翼に当る巨大な岬だ。第三は、これこそウラジオストック。沿海州を背景とし、「良波」は〝良港″の意であろう(「良い」の「ヨ」、「那の津」の「ナ」と「海」の「ミ」)。

 わたしは右のように理解した。

 では、この神話の「作者」は誰か。いうまでもない。出雲の漁民だ。なぜなら、「国」を綱で引き寄せて杭につなぐ、という、漁民が毎日の生活の中で行うべき労働、そのくりかえしだけで、この韻律豊かな神話が構成されている。インテリによる机辺の作ではない。漁民たちの集団、それが製作者たちである。 ― わたしはそう考えた。

 では、その製作時期はいつか。 - 縄文時代だ。なぜならそこに現われる、中心の「道具」は、縄と杭。金属器はない(「胸鉏」の語があるが、「すき」は木器あるいは栖(巣)城)。

 これに対し、『古事記』・『日本書紀』の「国生み神話」。ここでは「矛」と「戈」が主役だ。場所は筑紫。この状況は、考古学上の弥生時代の分布図と一致している。博多湾岸とその周辺を中心として、「矛」と「戈」の鋳型や実物が分布している。このような神話と弥生分布図との一致、それは偶然ではありえない。必然だ。すなわち、「この国生み神話は、弥生時代、筑紫の権力者によって作られた」、この帰結である。権力者は、自己の政治的支配の正当性を主張するために、この神話を作ったのだ。弥生新作神話である。

 以上のような、わたしの視点からすれば、金属器の登場しない「国引き神話」は、縄文期の成立。論理はわたしをそのように導いたのであった。

 さて、くだんの黒曜石の出所発見の意義について、古田さんは次のように述べている。

 この「発見」は、日本の学界に対して、画期的な意義をもつ。

 第一に、「縄文は、沿岸漁業に限る。彼等に遠出は不可能」そのように主張してきた、考古学の旧常識、それは打ち破られた。

 第二に、「現在に伝わっている伝承は、せいぜい室町以降。ほとんど江戸時代以降である」といった、「伝承」に関する民俗学の常識は打ち破られた。

 第三に、日本列島の歴史を「大和中心」でまとめることは不可能だ。まして「天皇家中心」など、とても、とても。あるいは「出雲中心」あるいは「東北、中心」の歴史観、すなわち、わたしのいう多元史観が、やはり不可欠だった。

 第四に、何といっても、「シュリーマンの原則」は、ここでも貫徹していた。神話・伝承の記録と考古学的出土物との一致、この肝心の一事がここでも、立証された。

 まして、ずっとあとの弥生時代、その同時代史料たる倭人伝と、日本列島の出土物分布と、この二つが一致せぬはずはない。

 そして第五。どんなに、従来の常識から見て、突拍子がなかろうとも、論理に従いきる。それが学問の生き死にする、要(かなめ)の場所である、ということ。

 古田さんの解明してきたことのうち、「従来の常識から見て」最も「突拍子」もない理論は、おそらく『魏志倭人伝の「裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)」は南アメリカの西海岸北半部(エクアドル・ペルー辺り)』という説だろう。この説も多くの学者により、一笑に付され、嘲罵されたのだった。(この古田説については既に 『「魏志倭人伝」の和訳文(2)』 で取り上げました。参照してください。)
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