2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史拾遺編》(115) 東京新聞連載
「東アジア流2」をネタに(8)


「舒明紀」の遣唐使


 今回は「舒明紀」と「唐書倭国伝」の遣唐使問題。改めて簡単にまとめると次のようである。

「舒明紀」
630年 唐へ遣使
632年 唐使・高表仁をともなって帰国
633年 高表仁帰国

「旧唐書倭国伝」
631年 倭国が唐に遣使。唐使・高表仁が倭国に来訪。

 つまり高表仁という同一人物が631年には筑紫(倭国)を訪れすぐ帰国し、その翌年には近畿(ヤマト王権)を訪れている。不可能ではないが、高表仁にとってかなりきつい日程だ。また「舒明紀」の遣唐使は「旧唐書」には記録がない。これらから私は、「舒明紀」のこの記事は「倭国伝」の記事の剽窃ではないかと考えていた。しかしこの考えは、「推古紀」の場合と同様、次の3点から否定されなければならない。

(1)
 「旧唐書」においても分国との外交記事は記録していない。舒明時代も九州王朝が倭国の中心権力であった。「舒明紀」の遣唐使が「旧唐書」に記録されていないのは当然である。たぶんヤマト王権以外の倭国内の分国(吉備や毛野や出雲など)の権力者も、それぞれ中国との交流を求めたのではないだろうか。

(2)
 日程についても、「推古紀」と同様なずれが考えられる。(以下は『失われた九州王朝』による。)

631年(舒明3年) 3月1日
 百済王、義慈(ぎじ)は王子豊章(ほうしょう)を人質として送ってきた。


 この記事は当然九州王朝の記録の盗用である。
 ところで、631年の時の百済王は武王であり、義慈王ではない。義慈王の在位年代は641年~660年である。朝鮮側の年代は、中国側の年号で書かれているので、これを間違っていると言うことはできない。間違っているのは「舒明紀」の方であり、「推古紀」の場合と同様、10年以上のずれがある。

(3)
 その内容の著しい違いから見てヤマト王権の遣唐使は実際にあった事件だろう。しかし(2)により、実際の年代は10年以上後のことである可能性が強い。

 内容の違いのおおよそは前回次のように書いた。

 「舒明紀」の方は和気あいあいにのうちに親睦を深めたようだが、「旧唐書」では「礼を争い、朝命を宣ずに還って」ってしまった。

 この問題は古田さんが詳述しているので、それを転載しよう。(『法隆寺の中の九州王朝』より。なお〔〕内は管理人による注です。)

 これ〔「舒明紀」の仲むつまじさ〕に反し『旧唐書』倭国伝の場合、「王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る」というのだから、結局、外交目的は不成功に終ったのである。「表仁、綏遠の才無く」とまで、いわれている。史書としては異例のことに属しよう。

 これも考えてみれば、当然のことかもしれぬ。なぜなら、多利思北孤は、みずから「日出づる処の天子」を称していた。それが訂正された形跡はない。裴世清は口頭外交をもって、事態の悪化を回避したにすぎぬ。

 したがって、まともに、両者が自己の格式(ともに天子)を主張すれば、大唐の使者と倭王と、相対するときの座の取り方一つで、衝突することであろう。そしてそれは原理上、和する可能性はない。

 なぜなら、たとえば魏使と卑弥呼の対面の場合、必ず、魏帝の代理人たる魏使が上座、卑弥呼が下座であったことと思われる。

 この点、大唐の使者(高表仁)もまた、それを要求し、倭国側は対等(天子同士)を要求するとすれば、高表仁が倭王に会う前に(前段階に王子と会ったさい)、すでに位取りをめぐる紛争が生じることは自明だ。高表仁は、四角四面に大唐の立場を主張し、倭国の王子側の大義名分論とおりあうことができなかったのではあるまいか。

 この点、舒明の方は逆だ。「天子―天皇」〔舒明時代は「天皇」ではなくまだ「大王」に過ぎなかった。後生、『日本書紀』の編者がヤマト王権の大王を全て「天皇」と言い換えた。〕だ。これは前者が優位、後者が劣位なのである。推古時代、「皇帝―天皇」〔唐からの国書では「倭皇」と呼んでいる。〕であって、しかも朝貢の語が使われていた。推古側も、これを容認して返報している。おそらく舒明時代も、これと同じ態度だったであろう。高表仁はここに、和すべき相手を見出したはずである。

 要するに、近畿天皇家の使者は、九州王朝の使者の配下(地方の雄者、分流)として、同時に、あるいは前後して、大唐と交流した。しかし、両者の姿勢は、大唐側から見て、決定的にちがっていた。一方は、戦うべき相手、他方は和すべき相手だったのである。

 大唐側は、ただ漫然と決戦〔白村江の戦い〕に突入したのではない。相手の内側を見定め、戦中と戦後への手を打っていた。少なくとも、手を定めていたのではあるまいか。

 裴世清・高表仁と、相次ぐ近畿天皇家との交流は、そのための下見、あるいは根まわしだったのではあるまいか。

〔注〕:唐が推古に対して使った「倭皇」という称号について、古田さんの論考を紹介しておこう。

 (推古の唐への国書で、推古は)相手(中国の天子)に対して「皇帝」と呼び「尊」と呼んでいる。自分については「天皇」という呼び名は使っても、慎重に「帝」とか「天子」とかいう至尊の用語は避けている。

 中国側では、天子の親族に対して「-皇」という追号をしても、「-皇帝」という追号はすべきではない。そういった言語感覚があったようである。

「君親を崇高し、功懿を褒明するに、乃ち皇号有り、終(つい)に帝名無し」(子彧、北魏の荘帝を諌む。『魏書』巻18。)

 上の『魏書』からの引用文の背景と意味ははおよそ次のようである。

 北魏の荘帝は、天子になった嬉しさからか、やたらに自分の兄弟などに、「何々皇帝」という名前を追号しようとした。それを硬骨の老臣子彧(しいく)が諫めた。
「それはだめです。そんな例は歴史をふり返ってみてもありません。「皇」だけならよろしい。それなら実際は皇帝などにならなかった兄さんにあげてもいい、その例はある。しかし「帝」というのは、もうこれは使ってはなりません」と。

つまり「倭皇」とは兄弟や臣下に与える称号なのだった。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1414-f9b5013d
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック