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《「真説・古代史拾遺編》(114) 東京新聞連載
「東アジア流2」をネタに(7)


「推古紀」のウソ八百(4)


 「推古紀」の次の「舒明紀」にも遣唐使記事がある。次のようだ。

630(舒明2年)8月5日
 大仁犬上君三田耜(だいににぬのかみみたすき)・大仁薬師恵日(くすしえにち)を大唐に遣わした。

632年(舒明4年)8月
 大唐は高表仁(こうひょうじん)を遣わして、三田耜を送らした。共に対馬に泊った。この時学問僧霊雲(りょううん)・僧旻(そうみん)および勝鳥養(すぐりのとりかい)・新羅の送使らがこれに従った。

10月4日
 唐の使者高表仁らが難波津に着いた。大伴連馬養を遣わして、江口に迎えさせた。船32艘と鼓・吹(ふえ)・旗職をかざってよそおいを整えたこれを迎えた。そして高表仁ら告げて言った。
「唐の天子の遣わされたお使いと聞き、天皇の朝廷にお迎えさせます」
高表仁はこれに応えて言った。
「この風の寒い日に、船を飾り整えて、 お迎え頂きましたことお迎え頂き、喜びに堪えません。」
難波吉士小槻(おつき)・大河内直矢伏(おおしこうちのあたいやひし)に命じて先導させ、館の前に案内し、伊岐史乙(いきのふびとおと)等・難波吉士八牛(やつし)を遣わして、客たちを伴って館に入らせた。その日、神酒を賜わった。

633年(舒明5年)正月26日
 大唐の客高表仁らが帰国した。送使吉士雄摩呂(きしのおまろ)・黒摩呂らは対馬まで送って還った。


 一方、『旧唐書・倭国伝』には次の記事がある。

631年(貞観5年)
 使を遣わして方物を献じた。太宗はその道の遠さを衿(あわ)れみ、所司(担当役人)に勅して毎年の入貢をしなくてもよいことにした。また、新州の刺史高表仁を遣わし、節(はたじるし)を持っていかせ、これを按撫させた。表仁は綏遠(遠方の国を按撫すること)の才が無く、王子と礼を争い、朝命を宣ずに還ってきた。


 どちらも唐からの使者は高表仁という同一人物だが遣使派遣の年が微妙に異なる。またその内容の方は著しく異なる。「舒明紀」の方は和気あいあいにのうちに親睦を深めたようだが、「旧唐書」では「礼を争い、朝命を宣ずに還って」ってしまう。何という違いだろう。

 『旧唐書』の「東夷伝」は「高麗・百済・新羅・倭国・日本」という5本立てで構成されている。つまり倭国と日本は異なる国として扱われている。「日本伝」は次のように始まっている。

日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。その人、入朝する者、多く自ら矜大(きょうだい)、実を以て対(こた)えず。故に中国焉(こ)れを疑う。

 そして「旧唐書・日本伝」に記録されている遣唐使は、「隋書・俀国伝」や「旧唐書倭国伝」の場合と違って、ことごとく「続日本紀」の記録と一致している。

 『旧唐書』が言う倭国は九州王朝で、日本国は近畿王朝であることは明らかなのに、ヤマト王権一元主義にどっぷりつかっている学者たちは、「倭国と日本を併記する不体裁」と決めつけ、「倭国=日本国」として扱っている。

 以上のことから、「推古紀」・「舒明紀」の遣唐使記事は中国側には記録がないことになる。そこで私は、「推古紀」・「舒明紀」の遣唐使記事はそれぞれ「隋書・俀国伝」・「旧唐書・倭国伝」からの剽窃であろうと、考えていたが、古田さんによって、その蒙を啓かれることになった。この問題について、古田さんは次のように述べている。

 唐初における推古朝の対唐外交が『旧唐書』などに記載されていないのはなぜか、という問題だ。中国側の史書は、各夷蛮の代表の王者との国交をその夷蛮伝に記すことを常としている。これ以外に、各夷蛮内部の「別国の王」「分流の王」たちが競って中国の天子に遣使したこと、それは当然だ。また、中国側も、これに応答したことであろう。しかし、それらはいちいち史書内に記録されるとは限らない。むしろ、記録されない方が通例なのである。

 『旧唐書』は、七世紀段階では「倭国」(九州王朝)を代表の王者と見なし、八世紀初頭にいたってはじめて「日本国」(近畿天皇家)をもって代表の王者と見なした。

 それにしても、隋から唐への転換の直後、この新興の唐朝へ遣使した近畿天皇家(推古朝)の外交政策は、まことに機敏であると共に、その後の展開(白村江の戦いなど)への大きな伏線となった。

 さて、「隋書・俀国伝」と「推古紀」に裴世清という同一人物が出てくるし、「旧唐書・倭国伝」と「舒明紀」には高表仁という同一人物が出てくる。この問題取り上げよう。

 まずは「定説」が「推古紀」の「遣唐使」を「遣隋使」の誤りと断じた理由の一つであった「裴世清」問題について。

 本題に入る前に、煬帝(隋)はなぜ、国書を持たせず、単なる口頭外交にとどまる遣使(裴世清)を俀国に遣わしたのだろうか。

 俀国伝では、国書はとどけられていない。これも、故あることだ。なぜなら、その前年(607)、多利思北孤は例の国書
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無さや、云々」
を送った。これに対して煬帝は不快の意をしめし、鴻臚卿(4夷に関する事務、朝貢来聴のことをつかさどる官)に対して
「蛮夷の書、無礼なる者有り、復以て聞する勿れ」
と語ったとしるされている。

 にもかかわらず、翌年(608)煬帝が特に裴世清をその倭国に派遣したのは、なぜか。

 思うに、この不遜なる国、ないし人物(王)の実状を調査させること、それが目的だったのではないであろうか。

 ただ、みずから「天子」を称して送ってきた国書に対して、同じく国書をもって返礼する、それはすなわち、相手の天子自称を認めることとなろう。ここに国書不携帯の遣使、その背景があったのではあるまいか。

 さて、古田さんは『失われた九州王朝』では、「俀国伝」中の文言「請う塗(みち)を戒めよ(旅行の準備をお願いしたい)。」を九州から近畿への旅行と考えていた。つまり、九州王朝との国交を済ませた裴世清が分国のヤマト王権との交渉のために九州から近畿に向かったと。これについて『法隆寺のなかの九州王朝』では次のように述べている。

 けれども今ふりかえってみると、ここには史料批判の方法論上、大きなあやまりがあった。次の二点だ。

(1)
 右のような理解の仕方は、『隋書』倭国伝と『日本書紀』推古紀とを、安易に結びつけて解しようとする立場であった。確かに、推古紀には「裴世清の来訪記事」があり、近幾天皇家側は彼を難波に迎え、飛鳥なる都の地へ導いている。そして推古天皇に接見している。
 しかし、『隋書』は、七世紀前半(621~36)に初唐において成立した。したがってその読者は、長安を中心とする初唐期のインテリであった。もちろん、一世紀近くおくれて成立する『日本書紀』のことなど、夢にも知らない。だから両書を合せ解するのではなく、『隋書』それ自身によって、この倭国伝を解する、それが正道だ。

(2)
 そこで、その『隋書』俀国伝そのものによって見る限り、隋使裴世清の行路記事中、所在の明確なものは、「都斯麻・一支・竹斯・阿蘇山」という九州内部の地名だけだ。「難波」や「飛鳥」に類する地名も、瀬戸内海行路の叙述も、日本海沿岸の叙述も、一切出現していないのである。
 この史料事実を、先入観なく見つめる限り、わたしは次の命題を確認せざるをえない。 -「隋使、裴世清は九州より東(ことに近畿)へは行かなかった」と。

(3)
 したがって右の「戒塗」の語も、これを〝近畿への旅″と解することは適切ではなかった。

(4)
 とすれば、この一文は一見異例なほど、きわめて友好的な交歓ののち、無事帰国の旅へと出発したこと、そのさい「倭使」を同道したことがのべられていることとなろう。

 以上が、わたしの新しい理解だ。では、同じ裴世清という人物の出現する、俀国伝と推古紀との関係は、どのようになるのだろうか。

 古田さんは裴世清の官職名に注目する。

俀国伝では
 文林郎(従八品)
推古紀では
 鴻臚寺の掌客(正九品)

 二つの事件の間には10年以上(おそらくは12年)のずれがあることは前回確認した。この間に裴世清は降格したことになる。この官職名の違いについて、「定説」論者たちは
「同一人の並称もしくは兼務」
あるいは
「一方(文林郎)は旧称、あるいは通称」
というような解釈をしてきた。二つの事件の10年以上のずれの間には隋→唐という激変(王朝の交代)があったことを考えれば、この裴世清の「降品」問題もなんら不思議ではない。

 唐の高祖は、名は「禅譲」ながら、その実際は一部将であった彼が天子に成り上ったのであるから、そのさいの信賞必罰・論功行賞にもとづき、「昇格」「降格」例を大量に生んだことは当然だ。右は、その一例にすぎぬ。(古田さんは『旧唐書』から2例をあげているが略した。)

 裴世清の場合も、そうだ。彼は隋代「文林郎」の職にあった。これは秘書省に属し、いわば煬帝の懐刀的な存在として、俀国に派遣された。正規の外交官僚ではなかったのである。口頭外交にふさわしい。彼はそれに見事成功して帰国した。

 隋滅亡後、唐朝が興ってより、煬帝の恩寵を受けていた彼は、当然ながら「降格」された。それがわずかにとどまったのは、唐朝もまた、彼の才能を利用せんと欲したからであろう。そして正規の外交官僚たる「鴻臚寺の掌客」に任用されたのである。

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