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《「真説・古代史拾遺編》(111) 東京新聞連載
「東アジア流2」をネタに(4)


「推古紀」のウソ八百(1)


 『古事記』は「推古記」で終わっているが、その記事は次のようになっている。

 妹(いも)、豐御食炊屋比賣(とよみけかしぎやひめ)命,小治田(おはりだ)宮に坐(ま)しまして、天の下治(し)らしめすこと、參拾漆歳(みそぢあまりななとせ)なりき。【戊子の年三月十五日癸丑の日に崩りましき】御陵大野の岡の上に在りしを、後に科長(しなが)の大き陵に遷しき。

 これで全部だ。ヤマト王朝の正当性(大義名分)を粉飾するという観点から、『古事記』が検定不合格になったのは「むべなるかな」である。

 これに対して「推古紀」(『日本書紀』)は、「推古の即位・聖徳太子摂政のこと・新羅征討・冠位12階の制定・17条の憲法・鞍作鳥のこと・遣唐使・兔田野の薬猟・聖徳太子の死亡記事・新羅征討の再開・寺院僧尼の統制・蘇我馬子のこと・天皇の崩御」と、虚実取り混ぜて華々しい記事となっている。岩波大系本では、前後の「崇峻紀」10ページ・「舒明紀」20ページに対して、「推古紀」は43ページにわたる。いかに力を入れて書かれているかが分かる。

 さて今回のテーマは

「小野妹子を隋に通わした」?

である。まず「推古紀」における「唐」との外交記事を抜き書きして見よう。(現代語訳で記載する。)

607年(推古15年)7月3日
 大礼(だいらい)小野臣妹子を大唐に遣わした。鞍作福利(くらつくりのふくり)を通訳とした。

608年(推古16年)
4月
 小野妹子が大唐から帰ってきた。大唐の国では妹子を名づけて、蘇因高(そいんこう)とよんだ。大唐の使人裴世清(はいせいせい)と下客(しもべ)12人が、妹子に従って筑紫についた。難波吉士雄成(なにこわのきしおなり)を遣わして、大唐の客裴世清らを召した。大唐の客のために新しい館を難波の高麗館(こまのむろつみ)の近くに造った。

6月15日
 客たちは難波津に泊った。この日飾船(かざりふね)30艘で、客人を江口(えぐち)に迎えて、新館に入らせた。中臣宮地連烏摩呂(なかとみのみやどころのむらじおまろ)・大河内直糠手(おおしこうちのあたいあらて)・船史王平(ふねのふびとおうへい)を接待係とした。
 このとき妹子が奏上した。
「私が帰還の時、唐の帝が書を私に授けました。ところが百済国を通った日に、百済人が探りこれを掠(かす)めとりました。書をお届けすることができません。」
 群臣はこれを詮議して言った。
「使者たるものは死をもっても、任務を果すべきである。この使いはなにを怠って、大国の書を失ってしまったのか。流刑に処すべきである。」
 このとき、天皇は次のように言った。
「妹子は書を失った罪があるが、軽々に処罰してはならない。大国の客人の耳に入ってはよろしくない。」
 妹子を赦して罰しなかった。

8月3日
 唐の客は都へはいった。この日、飾騎(かざりうま)75匹を遣わして、石榴市(つばきいち)の路上に迎えた。額田部連比羅夫(ぬかたべのむらじひらふ)がお礼の言葉をのべた。

8月12日
 客を朝廷に召して使いのおもむきを奏上させた。阿倍鳥臣(あべのとりのおみ)・物部依網連抱(よさみのむらじいだき)の二人を、客の案内役とした。大唐の国の進物を庭の中に置いた。使者裴世清は自ら書を持ち、二度拝して使いのおもむきを言上した。その書に曰く、
「皇帝、倭皇をとぶらう。使人の長吏(ちょうり)大礼蘇因高らが訪れて、よく意を伝えてくれた。私は天命を受けて天下に臨んでいる。徳化を弘めて万物に及ぼそうと思っている。人々を恵み育もうとする気持は土地の遠近にかかわりない。皇は海のかなたにあって国民をいつくしみ、国内は平和で人々も融和し、深い心映えには至誠あって、遠く朝貢することを知った。そのねんごろな誠意は私の嘉するところである。ようやく暖かな時節である。私は常の如く過ごしている。鴻臚寺(こうろじ)の掌客(しょうかく)(外国使臣の接待役)裴世清(はいせいせい)を遣わして送使の意をのべる。あわせて別途のように送り物をする」と。
 そのときに阿倍臣(あへのおみ)が進み出て、その書を受けとり進んだ。大伴囁連(くいのむらじ)が迎え出て書を受けて、帝の前の机上に置いた。儀式が終って退出した。このときには皇子・諸王・諸臣はみな冠に金の飾りをつけた。また衣服にはみな錦・紫・繍(ぬいもの)・織(おりもの)および五色綾羅(あやうすはた)をもちいた。

8月16日
 客たちを朝廷で饗応した。

9月5日
 客たちを難波の大郡(おおこほり)でもてなした。

9月11日
 唐の客裴世清たちは帰ることになった。また小野妹子臣を大使(おほつかい)、吉士雄成(きしのおなり)を小使(そいつかい)、鞍作福利を通訳として随行させた。このとき天皇は唐の帝をとぶらって次のような書を持たせた。
「東の天皇が西の皇帝に敬い申し上げます。使人鴻膿寺の掌客裴世清らがわが国に来り、久しく国交を求めていたわが方の思いが解けました。秋となりようやく涼しくなりましたが、貴国はどのようでしょうか。貴方はいかがお過ごしでしょうか。当方は無事に過ごしています。今、大礼蘇因高・大礼雄成らを使いに遣わします。意をつくしませんが謹しんで申し上げます」
 このとき唐に遣わされたのは、学生倭漢直福因(やまとのあやのあたいふくいん)・奈羅訳語恵明(ならのをさえみょう)・高向漢人玄理(たかむこのあやひとげんり)・新漢人大圀(いまきのあやひとおおくに)・学問僧新漢人日文(いまきのあやひとにちもん)・南淵漢人請安(みなふちのあやびとしようあん)・志賀漢人慧隠(しかのあやひとえおん)・新漢人広済(いまきのあやひとこうさい)ら合せて八人である。

609年(推古17年)9月
 小野妹子らが大唐から帰った。ただ通訳の福利だけは帰らなかった。

614年(推古22年)6月13日
 犬上君御田鍬(いぬかみのきみみたすき)・矢田部造(やたぺのみやつこ)〈名前は不明〉を大唐に遣わした。

615年(推古23年)9月
 犬上君御田鍬・矢田部造が大唐から帰った。百済の使いが犬上君に従ってやってきた。


 相手の国名は全部「(大)唐」である。しかし、隋が滅亡して唐が建国されたのは618年なのだ。上の記事は年代にはまだ唐は存在しない。隋の時代だ。

 これら一連のおかしな「遣唐使」記事を従来の「定説」はどのように解釈しているのだろうか。
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