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515 認識論と矛盾論(5)
レーニンの躓きの石
2006年6月4日(日)


 前回に紹介したような認識論を三浦さんは「マルクス主義の認識論」と呼んでいる。これからはその言い方にならう。しかし、ここでいうマルクス主義が「官許マルクス主義」のことではないことを改めて強調しておきたい。

 三浦さんよると、多くのマルクス主義者はエンゲルスの『フォイエルバッハ論』を入門書として一度は目を通すそうだ。。そして、これだけを読んでフォイエルバッハの全てを分かった気になってしまっているという。その結果、フォイエルバッハに対する過小評価と過大評価の両方が生まれてくると分析している。
 過小評価の方は『フォイエルバッハの宗教批判およびヘーゲル批判における観念的な自己疎外の解明を軽視する傾向』として現れる。また過大評価の方は『フォィエルバッハの社会観以外の唯物論的見解をそのまま正しいものとして受けいれる傾向』となって現れる。

 レーニンがこの後者の陥穽に陥っていた。
 フォイエルバッハはヘーゲルの「絶対精神」を否定して人間の思惟を「彼岸」から「此岸」に引き戻したけれども、「客観的存在そのもの」を「真理」と呼んでいる点で中途半端な唯物論にとどまっていた。

 真理について、フォイエルバッハは次のように言っている。

『観念論と自称する現代の哲学的唯心論は、唯物論に対してつぎのような ― その意見によれば唯物論を根絶するところの ― 非難を与えている。唯物論は独断論である。即ちそれは確定的なもの、客観的真理としての感性的世界から出発し、この世界をそれ自体における、すなわち我々なしに存立する世界とみなす、しかし世界はただ精神の産物にすぎないのだ、と。』

 これを受けてレーニンは

『フォイエルバッハが、唯物論は究極的な客観的真理としての感性的な世界から出発するといっている。』

とフォイエルバッハを丸呑みしている。

 ところで、マルクスの『フォイエルバッハ・テーゼ』の第二項は次のように述べている。

『人間的思考に対象的な真理が到来するかどうかという問題は ― なにも理論の問題ではなく、実践的な問題である。実践において人間はかれの思考の真理性、すなわち現実性と力、此岸性を証明しなければならない。思考の現実性あるいは非現実性についての論争は、 ― この思考が実践から遊離しているならば ― まったくスコラ的な問題である。』

 この第二テーゼについては三浦さんが分かりやすく解説している。


 対象であるお菓子がうまいかまずいかと予想を立てるのは思惟の活動であるが、それは食べてみるという実践によって、訂正されあるいは確認される。ここで真理であるか否かが証明される。対象的真理とは対象から与えられた真理の意味である。



 フォイエルバッハに躓いたレーニンはこの第二テーゼの「対象的真理」をフォイエルバッハ的に「客観的な世界そのもの」と曲解して、マルクス自身が「対象である物自体」を「真理」と呼んだかのように主張した。

『思惟の『対象的真理』とは、思惟によって真に反映される対象(=「物自体」)の存在をいいあらわしたものに ほかならない。』(強調はレーニン自身によるもの)

 つまり、レーニンはマルクスをフォイエルバッハまでひきもどし後退させて、その真理論を展開していった。三浦さんがレーニンの「唯物論と経験批判論」から引用している文章は次のようである。

『客観的真理が(唯物論者の考えるように)存在するとすれば、そしてただ自然科学のみが、外界を人間の「経験」の中に反映することによって、客観的真理をわれわれに与える能力があるとすれば、あらゆる信仰主義は無条件的に拒否される。』

『(1)客観的真理は存在するか? 即ち人間の表象の中には、主観に依存せず、人間にも人類にも依存しないような内容があり得るか?
(2)もしあるとすれば、客観的真理を表現する人間の表象は、この真理を一度に、すっかり、無条件的に、絶対的に表現し得るのか?それともただ近似的に、相対的に表現し得るにすぎないのか?

 この第二の問題は絶対的真理と相対的真理の問題である。』

『現代唯物論、即ちマルクス主義の見地から見れば、客観的、絶対的真理へのわれわれの近接の限界は歴史的に制約されている。だが、この真理の存在は無制約であり、われわれがそれに近接するということは無制約的である。画像の輪廓は歴史的に制約されている。だが、この画像が客観的に存在するモデルを描写するものだということは無制約的である。……一口にいえば、あらゆるイデオロギーは歴史的に制約されている。だがあらゆる科学的イデオロギーには(例えば宗教的イデオロギーと異って)客観的真理、絶対的自然が照応するということは無制約的である。』

 前回の認識論の検討で退けてきた間違った真理論のオンパレードである。
 第一の引用文では「誤謬」をまったく切り捨てている。
 従って第ニの引用文では絶対的真理が客観的真理の無条件的・絶対的な反映だと言っている。
 さらに、第三の引用文を加味すると、対象的真理=客観的真理=絶対的自然=絶対的真理であって、人間の認識としてはこの客観的な世界をすっかり反映したものが絶対的真理、部分的に不完全に反映したものが相対的真理だということになっている。そしてこのことから、部分的に不完全に反映したものがつぎつぎにつみ重ってすっかり反映するようになるという考え方、つまり「相対的真理の総和が絶対的真理である」と主張している。

 すべて、前回検討した「マルクス主義による真理論」とは全く逆立ちしたものになってしまっている。


 レーニンが、このように客観的に存在するモデルそのものを真理とよんだことは、マルクス主義に反しているけれども、このあやまりはさらに真理の弁証法的な把握を妨害する結果にならざるをえない。なぜならば、真理は誤謬に対立するものであり、弁証法は真理と誤謬を対立物の統一として……相互に転化するものとして、とらえるのである。だが、客観的実在を客観的真理とよぶならば、これはどこまで行っても真理であって、誤謬に転化することはありえない。それゆえ、あらゆる真理は条件づきであり、誤謬に転化する可能性を持っているというマルクス主義の真理論は、この時代のレーニンにあっては暗黙のうちに修正されているわけである。

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