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《「真説・古代史拾遺編》(110) 東京新聞連載
「東アジア流2」をネタに(3)


養老の遣唐使


 王さんの論文は次のように続きます。

 中国の歴史書をひもとくと、彼らは長安に入ると、儒学者の趙玄黙に『論語』その他を習い、孔子廟や道観などを参拝してのち、
「得る所の錫賚(しらい)、ことごとく文籍を市(あがな)い、海に浮かんで還る」(旧唐書)
と記されている。

 唐王朝は50あまりの国々から遣唐使を受け入れているが、それぞれの朝貢品に対して返礼した錫賚とは、ほとんどがシルク類であった。それを目当てにした西域諸国の使節らによって、東西間をむすぶシルクロードが賑わったわけだが、日本の遣唐使はなぜシルクを売って書物を持ち帰ろうとしたのか。一見すれば、養老の遣唐使がとった行動は怪異にも見えるが、じつは書物招来こそ、その前の遣隋使以来、日本側が一貫して定めた目標だったらしい。

 平安期の文献『経籍後伝記』によると、小野妹子を隋に通わしたのは「書籍を買い求めしむ。兼ねて隋の天子を聘(と)う」とあり、つまり書物購入がもともとの使命で、煬帝にまみえる政治的行為は兼業にすぎなかった。そういえば、奈良時代の太子伝で、小野妹子が政治中心地の大典城(隋の都)をはるかに離れた南方の衡山(こうざん)にのぼり、『法華経』を捜し求めたと語られる不思議な苦労話も、ただの伝説として片づけられなくな る。

 王さんは『経籍後伝記』とか「太子伝」とか、マイナーな文献から引用して、小野妹子が派遣されたのは隋としているが、これはもちろん間違い。小野妹子は遣隋使ではなく、遣唐使である。ヤマト王権が遣隋使を送ったことはない。この問題は後ほど詳しく検討しよう。いまは「養老の遣唐使がとった」怪異な行動の動機を検討する。

「得る所の錫賚(しらい)、ことごとく文籍を市(あがな)い、」について

 錫賚(陶磁器・金銀器・絹製品など)とは唐の皇帝から朝貢国の王に下賜された貴重品である。当然遣唐使はそれらを本国に持ち帰り、天皇に報告しなければならない。遣唐使が勝手に処分できる物ではない。それをすべて金に換えて書物を買いあさったというのだから、下賜した唐の皇帝に対しても失礼であり、たしかに「怪異な行動」である。しかし、錫賚は遣唐使が勝手に処分できない物なのだから、その行動は当然出発時に朝廷から命じられた予定の行動のはずだ。ではなぜそのような命令が発せられたのだろうか。くだんの旧唐書の記事をONライン(701年)前後の年表の中に置いてみよう。(以下は内倉武久著『太宰府は日本の首都だった』を参考にしています。)

687年(天武10年)3月17日
 天皇は大極殿にお出ましになり、川嶋皇子・忍壁(おさかべ)皇子…(以下10名略す)…に詔して、定帝および上古の諸事を記し校定させた。(日本書紀)


 九州王朝が大敗したあの白村江の戦い(663年)の24年後のこと。近畿王朝の正当性(大義名分)を主張する史書作成の準備を命じたものだ。『古事記』序文の次のくだりと軌を一にしていよう。

ここに天皇詔(の)りたまひしく、「朕(われ)聞きたまへらく『諸家の賷(もた)る帝紀及び本辭、既に正實に違(たが)ひ、多く虚偽を加ふ』といへり。今の時に當りて、其の失(あやまり)を改めずば、未だ幾年をも經ずして其の旨(むね)滅びなむとす。これすなはち、邦家の經緯、王化の鴻基(こうき)なり。故(かれ)、帝紀を撰録し、舊辭を討覈(とうかく)して、偽りを削り實(まこと)を定めて、後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲(おも)ふ。」とのりたまひき。

 この天武の「削僞定實」のためには諸氏族の墓記(先祖の事績をのべたもの)を没収し、『日本旧記』など九州王朝の史書を禁書とする必要があった。

691年(持統5年)8月13日
 十八の氏(大三輪・雀部・石上……)に詔して、その先祖の墓記(先祖の事績をのべたもの)を上進させた。(日本書紀)

701年(文武5年)  大和王朝の初めての年号「大宝」を立てる。(続日本紀)

708年(和銅元年)
正月11日
 山沢に逃げ、禁書をしまい隠して、百日経っても自首しないものは、本来のように罪する。
3月13日
 大納言正二位の藤原朝臣不比等を右大臣に任じた。(続日本紀)


 「墓記」の提出命令や禁書について、内倉さんは次のように論じている。

 (「墓記」の提出命令は)「古事記」の序文のなかで述べている「偽りを削り、事実を定める」という言葉に沿った措置であろう。何が「偽り」 であり、何が「事実」なのかは言及していない。記紀の叙述から判断すれば、「古来、日本列島の支配者はわれわれだった」という大和政権の大義名分が「事実」であり、紀氏らそのほかの氏族の伝承は「偽り」ということにされたと思われる。

 「奉らせる」という表現は、「死を賜る」と同じで、強制を伴う表現だ。平たくいえば「没収」である。偽りがある、といわれて、氏族の誇りであり、氏族の宝でもある「墓記」を没収され、誇り高い歴史を消された諸氏はどんな気持ちだったろうか。憤慨した氏族がほとんどだっただろう。しかし、にらまれればどんなことになるか……。黙りこむか、迎合するか、逃げるよりしかたなかっただろう。

 708年の「禁書提出命令」はさらにえげつない。「亡命」という言葉を使っている。「亡命」は律令で定められた罪のなかでもっとも重い「八逆の罪」のひとつである。国家や天皇に対する反逆であり、捕まれば死罪は免れない罪とされる。

 「禁書」が何という本なのか、書名はいっさい出していないが、「国家の存立とか、アイデンティティにかかわる本である」ことは言うまでもないだろう。そうでなければ天皇の命令である『詔勅』の形をとることはない」と古田さんは言う。

 なぜ禁書にしたのか、そしてなぜその本を抱えて山や沢に身を隠した人がいたのかを考えれば、逃げた人が所属していた国や個人のアイデンティティにかかわるもの、何よりも門閥や出身、氏族の歴史を重んじた当時の世相から考えると、「墓記」とか「史書」の類いであることは間違いないだろう。書紀・雄略紀にちらりと顔をだしている「日本旧記」もそのひとつである可能性が高い。要は、「新しい歴史づくり」、「偽りを削り、事実を定める」ことに、きわめてじゃまな存在の本であろう。これをまずつぶしておこうというねらいだったと考えざるをえない。新しい国家権力を背景に、「殺してでも」すべてを没収して闇に葬る必要があったのではないか。

 上の年表でことさらに藤原不比等の昇進記事を掲載したのは、以後大和朝廷の実質的な権力者は不比等であることを確認するためである。遣唐使の「怪異な行動」の命令者は不比等であったと思われる。

712年(和銅5年)
 太安万侶が「古事記」を撰上(古事記序文)

714年(和銅7年)2月10日
 従六位上の紀朝臣清人と正八位下の三宅臣藤麻呂に詔し、国史を撰修させた。(続日本紀)

717年(養老元年)2月23日
 遣唐使らが天皇にまみえた。(続日本紀)

開元の初、また使いを遣わして来朝す。… この題得る所の錫賚(しらい)、尽く文籍を市(か)い、海に泛(うか)んで還る。(旧唐書日本伝)

718年(養老2年)12月13日
多治比真人県守らが唐から帰郷した。

720年(養老4年)5月21日
一品の舍人親王は勅をうけて日本紀の編纂に従っていたが、この度それが完成し、紀卅巻と系図一巻を奏上した。

720年(養老4年)8月3日
 右大臣正二位の藤原朝臣不比等が薨じた。

 『古事記』についての記事は『日本書紀』にも『続日本紀』にも一切出てこない。検定不合格本となり、抹殺された。そして新たに『日本書紀』の編纂が始まる。それは「養老の遣唐使」をはさんで720年に一応の完成を見る。

 717年、唐に行って書物を買いあさった、という記事は興味深い。しかしこの記事は今、古代史学界で表立って取り上げられることはほとんどない。こんな記事があるということを知る人はほとんどいないのではないか。

 「日本の正史」である書紀の権威を傷つけることになり、ひいては書紀を「研究のよりどころになる唯一の史書」と位置づけようとする研究者にとっては、「あってはならない話」かもしれない。

 書紀は、天皇や臣下が言ったという言葉や行為の記事に、中国の史書や名文集を徹底的に利用して飾り立てている。元大阪市大の小島さんらの研究では、わかっているだけでも4000ヵ所近い。「史記」「漢書」「後漢書」「三国志」「梁書」「隋書」などの史書をはじめ、「文選(もんぜん)」、百巻ある「芸文類聚」という名文集、「金光明最勝王経」などの仏典が利用されている。時期が時期だけに、「買いあさった」という「文籍」がこれらの本であることはまず間違いなかろう。

 「新しい歴史」を飾るために不可欠な材料であり、「買い物」だったと思われる。「市中の文籍を買い尽くした」という表現は、唐の都・長安の市中でもトピックニュースだったのだろう。「下賜品を売り払うという失礼を犯し、あの連中は何をしようとしているのか」と疑いの目をむけている文面だ。

 「墓記」や「禁書」の提出を命じたのは、持統天皇とか元明天皇だが、それが天皇の意志かというと、それはもちろん、「読みが浅すぎる」解釈である。今も昔もそうだが、国家組織の意志は天皇の詔勅とか、将軍とか総理大臣、省庁大臣の名前で世に出る。しかし、それが天皇など個人の意志かというと、決してそうではない。この当時の大和政権を牛耳っていたのは藤原不比等という恐るべき政治家、謀略家である。

(中略)

 一連の「史書狩り」や史書づくりを指図していたのは不比等にほかならないと思われる。不比等は史とも書く。そして、日本書紀の筆者に紀氏の一人である紀清人を入れたのも、いかにも不比等らしい采配だ。紀氏は、おそらく6世紀ごろまで日本列島を代表する権力者で、「倭の五王」もこの氏族が出した大王だという系図もある。紀氏や、それを受け継いだ阿毎(天 あま)氏を中心にした政権の歴史を消すために紀氏を登用する。それは、「毒をもって、毒を制す」という戦略であったのではなかろうか。

 苦しい立場の紀清人はそれでも、できうるかぎりの抵抗をしているようだ。例の「日本旧記」という書名を、不必要と思われる形で出していたりしている。明らかに事実と違うことは書かなかったり、重要人物の名を「わからない」ととぼけたりして、苦労しつつも、本当の古代史解明への手がかりを残してくれているようだ。

 不比等が720年、「大義名分の史書・日本書紀」が出来上がるのを見届けるかのように死ぬのも何かしら象徴的である。

 『日本書紀』が引用・盗用・剽窃しているのは中国の文献や九州王朝の史書だけではない。朝鮮の史書「百済本記」「百済新撰」なども徹底的に利用している。
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