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《「真説・古代史拾遺編》(106)
「倭の五王」補論(9)


「倭の五王」とはだれか:真説編(8)

 良山「古系図」の分析に戻る。

②高良玉垂命神―(2代)→朝日豊盛命神

 良玉垂命が高良山に来臨したのが仁徳55年(367)であることは、大善寺玉垂宮の由緒書により、すでに私(たち)の知るところであるが、高良山「古系図」にも「仁徳天皇治天五十五年九月十三日」という注記がある。古田さんもこれを倭国の「遷宮」と考えている。古賀さんの説くところ同じ判断をしている。

 中国の南北朝分立(316年)以後、高句麗と倭国は対立し、撃突した。その危機(高句麗の来襲)を怖れ、博多湾岸中心の「倭国」(弥生時代)は、その中枢部をここ高良山へと移動させたようである。それが右の「仁徳55<皇暦>」(367)だ。それ故、高良大社は、この「高良玉垂命神」を以て「初代」とする。

 ①の「孝元」(前214~前158)から②の玉垂命(367)までは数百年の隔たりがあるが系図①には「二代」(彦太忍信命・屋主忍武雄心命)しか記録されていない。古田さんはこれを各代の“集約形”と考える。

 これは「X(エックス)代」各代の“集約形”と見なさなければならぬ。たとえば、古事記の神代巻の末尾で
「故、日子穂穂手見命は、高千穂の宮に伍佰捌歳(580才)坐しき。
として、一名の「ヒコホホデミノミコト」を以て「589年」(二倍年暦とすれば、290年)の各代の“代表名”としているのに、まさに同している。

 良山古系図はこの後、「九躰皇子」の第二子・朝日豊盛命神を「元祖」として展開していく。改めて「九躰皇子」の名称を記す。

(1)斯礼賀志命神 (2)朝日豊盛命神 (3)暮日豊盛命神 (4)渕志命神 (5)谿上命神 (6)那男美命神 (7)坂本命神 (8)安子奇命神 (9)安楽応宝秘命神

③物部日良仁光連―(6代)→日往玉尊連

 この世代はいずれも、末尾が「連(つら)」(「むらじ」ではない。)という称号で結ばれている。

 (1)物部日良仁光連→(2)日往子明連→(3)日男玉頼連→(4)神力玉依連→(5)日光玉一連→(6)日往玉尊連

 この世代の名称に使われている「連」について、古田さんは次のように解読している。

 「連(つら)」は、「津ら」であり、「ら」は「うら」「そら」「むら」などの「ら」である(「ぼくら」の「ら」と同じく、複数形か。力石巌 氏の説。)。“港の支配者”の意の称号、「海洋民族(海人<あま>族)の長」である。

 次の系図④の世代は「連」のあとに「和風一字名称」を添える時期である。

④日明玉連尚―(20代)→公賢皇連岩

1.日明玉連尚→2.舎男連常→3.日柱男連廣→4.大直連俊→5.大全神連親→6.日天男連信→7.大長津連秀→8.大勝津連平→9.神仲熊連豊→10.神天子連家→11.神道天連良→12.神司宮連法→13.神天仲連就→14.神頭国連軌→15.神斗玉連仍→16.神面土連篤→17.賢名皇連忠→18.意賢皇是連→19.賢天皇兼連→20.公兼皇連岩

 ③の6名と④の20名の名称に共通するものとして古田さんは『「神道式戒名」とも言うべきもの』をあげている。そして、この「神道式戒名」という概念が「今回、わたしがこの「古系図」の史料分析をなすべき基礎概念となった」と言う。

 仏教において、死後「戒名」の贈られること、周知のごとくである。「~院~居士」等の類である。これに対し、神道では「おくり名」(貴人)や、「霊璽」のあることも、当界では知られている。

 これに比し、高良山(大社)の場合、明治維新の「神仏分離」以前は、神仏習合の時代だ。「大祝」(神道)と「座主」(仏教)の両者並存であったこと、周知のごとくであるから、その時間帯の中で、「おくり名」としての「神道式戒名」が存在したとしても、何等不思議ではない。

 仏教の「戒名」でも、その中には“生前の業績や遺業”を、一部分に挿入すること、一般によく知られている。従って「神道式戒名」もまた、「戒名」の一種であるから、この類の一部挿入、もしくは業跡の反映があった、と考えても、決して不自然ではない。

 以上の前提に立って、④の「一字名称」を次のように分析している。

 このような「和風一字名称」(倭の五王)、そして先述の「仏教的一字名称」(「利」)との間には、命名文化上、何等かの「相関関係」あり、と見なすこと、十分に可能なのではあるまいか。中国的文化(一字名称)の影響である。

 この点、記・紀に現われた、近畿天皇家の「天皇名称(おくり名)」には、その痕跡乃至“同類表現”を見ることができない。この点と、好対照である。

 ④の「10.神天子連家」がある。「天子」の二字が含有されているのは、この一例だけだ。「日出ずる処の天子」を称した多利思北孤との関連が注目されよう。

 次に目立つのは、同じく④の16.神面土連篤」である。「面土」には“郷土に向う”“郷土にそむく”の意味がある。更に「面縛」の術語がある。

「面縛」
 両手を後に縛り、面を前に向ける。

 周の武王、紂を伐ち殷に克つ。微子乃ち其の祭器を持ち、軍門に造(いた)り、肉袒・面縛し、左に羊を索(ひ)き、右に茅を把(と)り、膝行して以て告ぐ。<史記、宋微子世家>

 この語は“王者が降服する際の儀礼”をしめす。この人物の「神道式戒名」に、他に例のない「面土」の表記が入っているのは、或は“降服した王者”であることを、一字もしくは二字として「反映」させているのではあるまいか。唐側の“捕虜”として年月をすごし、帰来をようやく許された、あの薩夜麻、筑紫の君である。(日本書紀の天智10年11月、及び持統4年10十月項)

 他にも、今後、史実との関連の指摘されうる事例を見出すことが可能であると思われる。

 ④の次の世代・系図⑤は「麻呂」という、明白に「臣下の位階」をしめす称号となっている。

⑤高麻呂連時―(26代)→星明麻呂保重

 ④のの終り「20.公賢皇連岩」と⑤の冒頭「高麻呂連時」の間には、「皇」=「天子時代」と「麻呂」=「臣下時代」という画然たる落差がある。これを古田さんは『旧「倭国」と新「日本国」との画期線』ととらえている。つまり、701年の権力交代を示している。

 このような“名称上の一大落差”を、後人がみだりに「仮構」しうるものではない。すなわち、他に非ず、史実の反映である。

 以上の史料批判により、良山「古系図」と稲員家「古系図」は、史実を反映した史料として使用できる重要な記録であることが分かった。
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